#205 6-1-6 Minamiaoyama Minatoku TOKYO
info@nichigetu-do.com
TEL&FAX:03-3400-0327
sitemap mail

new arrival

19/06/01 「うつす」ということに関する3点。

■今日から6月。6月は東京古書組合南部支部主催による年に一度の大市の月。それが今年は6月8日(土)とあって、小店6月8日は午後遅く15時~16時からの営業とさせていただきます。どうかご注意いただけますようにお願いいたします。
本日6月1日(土)、来週の4日(火)・6日(木)は12時より20時まで通常営業いたします。ご不便をおかけし、なおかつ梅雨入りも近づいてきておりますが、ご来店いただければ幸いです。
また、HPの更新は来週1回お休みさせていただきます
どうか悪しからず、何卒よろしくお願い申し上げます。

画像1点目は本の上に立つベティちゃんとその愛犬パジーをかたどった金属製の置物。比較的重量があるので、ペーパーウェイトではないかと推測しています。このページ左上はその後ろ姿。前から見ても後ろから見てもかわいい。高さは10cm弱とこれまたカワイイ。がしかし、残念ながら「忠実なうつし」…というには少々苦しい造形は、わが国でもベティが大流行した昭和初期の日本製ではないかと見ています。

 

■後にインドの3大財閥と云われるようになるタタ・グループ2代目会長を務めたドラブジー・タタの婚礼を記念して、ごく小数部つくられたと思われる写真アルバムが今週の2点目。
見るところ19世紀の後半の頃のものらしく、幕末~明治の日本の写真アルバムを使ったのか、金彩画を施した重厚なアルバムに21×26cm強の鶏卵紙写真22点、横倍サイズの写真1点が貼り込まれています
タタ・グループはドラブジーの父、ジャムシェトジー・タタが1870年に貿易会社を設立したことに始まるそうで、自宅で開かれた結婚式と両家の家族などを記録した端正な写真と、この頃すでに一大財産を築いていた一族の所有する広大な土地や、贅を凝らした豪壮な邸宅の写真とで構成されています。
タタ・グループは1892年に世界初の公益信託のひとつJ.N.タタ高等教育基金を設立するなど、その名も『善良過ぎて潰せない』というタタの歴史を追いかけた著作があるほど、企業倫理の高い企業体だと聞きますが、その沿革概略を公開している同グループのサイトその他、いくもかのサイトを確認したつもりですが、このアルバムに残されている写真と同一のものは、いまのところ見い出せませんでした。
また、扉には、「R. Kawamura」と日本人の宛名が書かれているものの、一体どのような人物だったかは小店では解けない謎として残りました。
近い将来、せめてカワムラ氏の正体だけでも突き止められないかと思い、もとい、思っては、いるのですが、さて。

■社会変革、と云う点では、タタ・グループのお仲間と云うべきか…? 1950年代の国鉄工場の労働の現場と、国鉄労組による国会周辺でもデモ・抗議活動などとを収めた33枚の写真が入荷しました。戦前のプロパガンダ雑誌さながらの工場でのスナップ写真の中にはとくに力のある作品が目立ちます。
写真の1枚の裏に「日本機関紙協会」のスタンプ、別の1枚に「青年報道写真家協会 写真 山本静夫」のスタンプがあります。
「青年報道写真家協会」は写真家集団マグダムを意識して結成されたもので、山本は三木淳、大竹省二、田沼武能らとともに参加、顧問には木村伊兵衛と土門拳が迎えられたと云います(AERA dot.鳥原学連載「アサヒカメラの90年」第7回より)。
作品として見て優れているだけでなく、報道写真家を目指した人たちの視点が捉えた一瞬が、資料として見ることができる確かな記録となっていま残されています。

今週の蛇足。
https://mobile.twitter.com/tako_ashi/status/1133327621121486850?s=12&fbclid=IwAR3yYTcKf_S15KPmg6oQF8f8IgYUMoBkcBWnWkzTz7Q6Wa4ZXzQbtGkz_58

https://twitter.com/3sc5vunuphy5env/status/1127224186743603201

 

 

19/05/25 溝上遊亀がスケッチした中国・韓国。外国人が見た日本・中国。

■小倉遊亀と云えば日本画界の本流であり日本画の王道。小店とは全く無縁だとばかり思っていました。しかも、肉筆。どう考えても扱うことはない。
と思っていたのが何故、応札に及んだのかと云えば、小倉遊亀の画壇デビュー前の作品であること、描いているのが中韓旅行の際の風景だから、でした。
もうひとつ。何故小店なんぞに落札できたかと云うと、本画ではなくスケッチだったから、というのも大きかったと思います。
さて、今回落手した小倉遊亀の肉筆スケッチ画鉛筆と水彩によるもので、いずれもA3程のサイズで内訳は下記の通りです。
①署名と日付、場所が書き込まれた朝鮮半島でのスケッチが8点(全て鉛筆画で内2点に水彩による着彩。)。南坆鉄山ニテ、南坆停車場Hokuryo、FUSANヨリ、奉天鐘楼、本渓湖雨、など。
②同じく朝鮮でのスケッチで署名等記載がない(未完の?)スケッチが3点
③1916年の日付と署名入り、手首から先の手のスケッチ(鉛筆画に着彩)1点
草花のスケッチ5点(着彩1点、全点無署名)、
出所を証明するために添付して出品されたと見られる戦前のハガキ2通(小倉遊亀宛と溝上遊亀宛の各1通)
①と③に残されている署名や日付から、いずれも1915~1916(大正4~5)年に描かれたものと見られます。
この頃、小倉遊亀はまだ高等師範学校に学ぶ学生であり、安田靭彦の門下に入る前。もちろん小倉鉄樹と結婚する以前なので、署名は旧姓の溝上からとられており、“Y.Mizokami”“Y.M.”“Y.Mizo.”“M”“Y”“YUKI”などが混在しています。 

小倉遊亀についての基本的知識もないなら基本資料ももたず何も知らないままの現状では、断言は避けねばならないものの、画家・小倉遊亀のスタート地点に関わる資料 - かなり貴重な ? - としてみて良いのではないかと思います。
最後にもう一言。
いやあもううまいんです。かなり。小店店主が買っておこうと思ったくらい。ま、当然ですが。でもうまい!
 
日清戦争に勝利し、韓国併合を経て、小倉遊亀がスケッチ旅行で歩いた当時、日本人の多くはもうすでに朝鮮・中国に対してある種の優越感をもっていたのではないかと推測しますが、しかしそこから70~80年さかのぼると、西欧社会から見た日本は中国や韓国よりずっと珍奇な国だったのであろうことが分かる手彩色の銅版画(手彩色)のプレートが20枚。いずれも縦13.5cm、横8cm程度のかわいらしいサイズです。1823年にイギリスで発行された『The World in Miniature Japan』に収められていた図版部分。その名の通り、ミニチュアサイズの本で世界を紹介しようというシリーズで日本を扱った巻に収められていたものと見られます。
確かに日本? のよう? ではあるものの、中国や韓国、インドから中東諸国まで、オリエンタルなニュアンスが絶妙にちりばめられたとても面白い図版に目が釘付けです。
サムライや僧侶の服装と男性の髷についてはまだ、日本と断言できる域にあるものもありますが、男性でも兵士や力士ののなりは完全に別物、さらに女性のキモノに至っては完全に洋服をベースに描かれています。キモノ描くの、難しかったんでしょうね。
時はまだ徳川家斉ショーグン様の時代。シーボルトが出島に来たか来ないかという頃のこと。日本はまだまだ靄の向こうにあるまぼろしのような存在だったのだろうと思います。 

■時代の針をいままた少し進めて、1941年。上海の版元から出版された『SHANGHAI』の初版が入荷しました。2度目の入荷ではありますが、2011年以来、実に8年ぶり。以下の解説は前回入荷の際の自店のサイトから適宜コピペ。多少訂正した部分もありますので、こちら↓をご覧下さい。
上海バンドにあったNorth-China DailyNews & Herald 社発行の上海案内の本で、写真及び文章とデータなどをまとめたのはEllen THORBECKE、洒脱なイラストはSchiff(シーフー)によるもので、二人の共著による大人向けの絵本といった体裁・内容。
シーフーはフルネームをFriedrich Schiffというオーストリアのイラストレーター・漫画家で、中国および極東で新聞や雑誌、書籍、広告などの仕事についていました。共著者であるEllen Thorbeckeはドイツの女流報道写真家で1930年代の中国で活躍、カメラはローライフレックスを使用していたと云います。
上海の街と街に生きる人たちの日常の何気ない風景を切り取った写真と、コミカルでカラフルなイラストとのコンビネーションが実に洒落ています。小店店主の好きな本のひとつ。
 
さて、明日より令和初の国賓を迎えて、太平洋の向こうとこちらのショーグン様がご対面。ソーリお得意の おもてなしにはいくらかかってどんな国益がもたらされるものやら。というわけで、今週のニュースから。これが国費かと思うと…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201905/CK2019051402000133.html

19/05/18 桑原甲子雄のパリと伊藤藤七のアメリカと。

■お約束した今週水曜日の更新が滞り、結局1回休んだ格好となりましたが、今日こそは新着品のご案内を。
新着品の1点目は、遡ること3ヵ月、今年2月の市場に突如として一挙に現れた桑原甲子雄旧蔵品の中から落札した品物。
パリの街と人とをモチーフとした、桑原甲子雄によるスナップ写真の紙焼き18点です。
全点マット装が施されているものの、タイトル、撮影時期、署名などの手掛かりは一切なし。戦前戦後60年にわたり写真を通じて東京をスケッチし続けた桑原に、パリという素材は大変似つかわしいように思われ、つい手を出してしまったものの、はて、桑原はいつパリに行ったんだろう? 
G先生にお尋ねすればたちまち解決するかと思われたこの点について、意外なことに電脳空間ではいまだほとんど記述が見当たらず、ひとつ見つけたキーワード「人間都市パリ」を手掛かりにしてたどりついたのが展覧会「桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチ60年」(2014年 世田谷美術館)の図録でした。
ちなみに画像中の右下に置いた縦位置の写真中央に写っているのが桑原甲子雄その人です。
図録によれば、桑原は1978(昭和53)年の9月、パリに11日間滞在し、その成果は主に1979年と2002年の個展で発表。また、1997年に札幌で開催された桑原の写真展にも出品されたようですが、これについては図録制作の段階では「詳細な情報を得られていない」とされています。
世田谷美術館の図録に収録されたパリの写真図版は12点。一方、世田谷美術館が収蔵するパリの写真は全部で32点あり、2002年の個展に出品されたプリントと見られる、との記述も見られます。
世田谷美術館が収蔵している32点全点との突合せができないため、いま手元にある18点については、いつ・どの段階で・誰の手によってプリントされたものなのか、残念ながらひとつも断定することができないまま、この3ヵ月が過ぎたという次第です。
あくまで感覚的な判断で云えば、紙焼きの状態と質感から、残念ながら1979年の渡仏直後のものと見るには新しすぎる印象が強いのは事実。桑原甲子雄没後の後焼きと見るべきかと考えています。
写真はどれも、都市と都市に生きる人の何気ないありようを写しとった桑原らしい作品ですが、東京のスナップに比べるといささか予定調和的とでっもいった印象も。それだけクセがないので、例えば贈り物にしても嫌う人はまずいないだろうと思います。 

作品は「桑原没後の後焼き」を前提とした価格で、来週火曜日より一斉に店頭で販売する予定です。
あ。Air PayでもPayPayでもお支払いはキャッシュスで !(笑)
 
次の写真についてははG先生が懇切に説明してくれました。曰く、“東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者”伊藤長七の、1921年から約13ヵ月にわたった初の欧米視察中のスナップ写真73枚と、帰国直後に郵送した挨拶状です。
未使用の挨拶状がまとまって残されていること、撮影地の地名をペン書きした紙にはさんで写真を分類していることなどから、伊藤長七その人の旧蔵品と見ています
破格の人物に相応しく、なかなかに華々しい各地での交流がありながら、いま小店にある73枚の写真の多くは各地の風景と長七その人の写真がほとんど。ほとほと物語性に欠ける内容ではありますが、しかし、日本の教育史を語る上で欠くべからざる人物の写真が、無用の品としてひとつ間違えれば捨てられかねない状況にあったのであろうことに少なからず不安を感じます。
お役所でさえロクに記録を残さない我がうるわしきニッポン国のこと、この程度で嘆くに値しないと云えばそれまでですが、過去のないところに未来なし、令和の時代、「記録」に対する意識が少しはまともに戻ってくれと願うばかりなのでした。
 
 
■うかうかと生きてきたがその証拠に、昭和も平成も矢の勢いでとびすさり、この度めでたく元号ふたつ向こうの人となりました。
と云ったところで本体(=店主=店員)の機能能力がアップデートされるわけでもなく、むしろ定期更新をサボるなど経年劣化ばかりが目立つ中での新着品のご案内と相成りました。
この劣化、これから先、進むことはあっても修復される可能性は絶無に等しい小店店主ですが、惰性に流れず眠気に負けず、どうにか精進してまいりたく思っております。どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。
 
 

 

recent catalogue C by image