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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第8回 ベルリンの青春[6]
沼辺 信一

15/January/2010

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ボリス・アニスフェリドによる
(左) 『山の魔王の七人の娘』愛の精(パヴロワ)の衣裳デザイン(1912年)
(右) 『レ・プレリュード』舞台デザイン(1912年)

戯れの多いパヴロワ一団のバレエにはかなりの不快を覚えた
1912年のクリスマス当日にベルリン公演が開幕してからも、アンナ・パヴロワの心配の種は尽きなかった。三顧の礼を尽くしてペテルブルグからミハイル・フォーキンを振付家として招いたものの、肝腎の新作バレエ上演の準備が一向に捗らなかったからである。
ディアギレフとの確執からバレエ・リュス退団を余儀なくされ西欧での活動拠点を失ったフォーキンは、パヴロワからの誘いを快諾するとともに、早速いくつかの腹案をもとに新作バレエの構想に取り組んだ。最終的に選ばれた二作は『山の魔王の七人の娘』と『レ・プレリュード』といい、ともに既存の管弦楽曲に基づく一幕物のバレエである。『山の魔王の七人の娘』はリムスキー=コルサコフ門下のアレクサンドル・スペンジアロフ(1871~1928)の交響詩「三本の棕櫚」(1905年)のバレエ化であるが、フォーキンは原曲の発想源であるレールモントフの同名の詩に『千一夜物語』から全く別のプロットを接ぎ木し、『シェエラザード』ばりの饗宴と殺戮のドラマに仕立て上げた。【註57】『レ・プレリュード』はフランツ・リストの代表的な交響詩「レ・プレリュード」(1854年初演)を用いた寓意バレエであり、リストの交響詩が掲げるラ・マルティーヌの詩句「人生は死へと至る一連の前奏曲である」に因んで、人間の生と死の相克を象徴的に描き出す内容だった。【註58】今日ではすっかり忘れ去られてしまったものの、どちらもフォーキンならではの「総合芸術」として発想され、入念に組み立てられた意欲作だったようである。
 これら二つのバレエで舞台美術を任されたのはボリス・アニスフェリド(Boris Anisfel’d 1878~1973)である。アニスフェリドは「芸術世界」グループの周辺に位置する画家でディアギレフとも親しく、1911年のバレエ・リュス公演でフォーキンと協働し、『サトコ(海底の王国で)』の装置と衣裳を手がけた経験があった。少しのちにロンドンで『レ・プレリュード』の上演に接したシリル・ボーモントは、「キュビスム風に仕立てられた」装置だったと証言している【註59】
旧来の流儀に馴染んでいたパヴロワのバレエ団にとって、フォーキンが持ち込んだ新しい理念やスタイルは容易に受け入れがたく、過酷な技術的要求や新奇な振付への戸惑いや反発もあって、練習は遅々として進まなかったようだ。「唯夢中で見てしまいました」と伊藤道郎が無邪気な感想を書き留めた公演日(おそらく12月29日)にも、フォーキンの新作はどちらも舞台にかけることができず、従来のレパートリーで急場を凌ぐほかなかった。舞台裏ではおそらく本番直前まで慌ただしくリハーサルが続けられていたことだろう。結局これら二つのバレエのベルリン上演は当初の予定からずれ込んで、1913年の年頭まで持ち越された。

生まれて初めて本場のバレエに遭遇した伊藤道郎は、興奮の面持ちで言葉にならない感動を山田耕筰や斎藤佳三に伝えたことだろう。そもそもベルリン到着直後で右も左もわからぬ伊藤が誰よりも早くパヴロワを鑑賞できたのも、ひょっとして山田耕筰の好意がもたらした結果だったのかもしれない。ニジンスキーに心酔し、バレエ・リュス公演に日参した山田は、ほどなく同じ劇場で予定されるパヴロワ公演にも期待と関心を寄せ、早々と前売券を手に入れていた公算が大きい。ちょうどそこに絶妙のタイミングで二人の新参者が来訪したため、山田は手許にあった切符を気前よく伊藤に譲り、自らは日を改めて親友の斎藤と連れ立ってクロル歌劇場に赴いた、という成り行きではあるまいか。
後述するように、このとき山田と斎藤が目にした舞台は伊藤が書き残したものと明らかに演目内容が異なっている。パヴロワのベルリン巡業では週替わりでプログラムが更新されたとおぼしいので、二人が公演に足を運んだのは四週間の興行の二週目以降、すなわち1913年1月になってからと推察される。幸運にもそれは、年末から先送りされていたフォーキン振付の新作のいずれかに、二人が期せずして遭遇できたことを意味していよう(『山の魔王の七人の娘』は1月1日、『レ・プレリュード』は1月15日にそれぞれ初演)。【註60】
あまりにも素朴で短すぎる伊藤道郎の感想に比べて、山田の残したパヴロワ評は冷静な観察眼と批評精神が光っていて、さすがに一日の長が認められる。しかも相当に辛辣な筆致である。ただし、以下に引く文章はベルリンでの実体験から十年近く経過した1922(大正一一)年9月、パヴロワの来日に際して『東京朝日新聞』に寄稿したものであり、執筆時点での「後知恵」や舞踊観の変化に起因するバイアスが強くかかっていることは、これまでの山田の引用文と同様である。冒頭にいきなり「一九一二年の五月のことでしたらう」とあるように、記憶違いが含まれる点にも留意する必要がある【註61】

私がはじめてアンナ。パヴロヴアの踊りを見たのは、多分、一九一二年の五月のことでしたらう。まだその頃のパヴロヴァは今ほど有名になつてはをりませんでしたが、とにかく巴里の芸界を薙倒して来た舞踏手 [バレリーナ] だといふので、当時伯林に滞在してをられた親友斎藤佳三を誘うて、ティア・ガルテンの新緑のリンデの木の下蔭を、モルトケの像の背に面したクロル・オペラ座の方へと、閑歩を移して行つたのでした。
単にかうした軽い好奇心から偶然座席に着いたこととて、さう大した予期も期待も持つてはをりませんでしたが、少し前にニジンスキー一派の新しい露西亜舞踏 [ロシアバレー] を見て、既に幾分不満を感じてゐた折のことでしたから、露西亜舞踏特有の背景とパヴロヴァ自身の技巧のさえ [「さえ」に傍点] には多少のよろこびを感じたものゝ、露西亜舞踏といつても寧ろ旧派に属する伊太利舞踏 [イタリーバレー] 的たはむれの多いパヴロヴァ一団の舞踏 [バレー] そのものには、かなりの不快を覚えずにはゐられませんでした。
[……]
*[ ]内は引用文中のルビ。

山田は文中で「巴里の芸界を薙倒して来た」バレリーナとの世評を耳にして「軽い好奇心から偶然」「さう大した予期も期待も持つてはをりません」と冷静な観客ぶりを殊更に強調しているが、実情はそれとは異なっていたはずである。直前のバレエ・リュス公演でニジンスキーの妙技に圧倒され、強烈な印象も冷めやらぬまま、胸ときめかせてパヴロワの公演に臨んだのではなかったか。一足先に鑑賞した伊藤道郎の一途な興奮ぶりも、山田の期待にいっそう拍車をかけただろう。
にもかかわらず、「パヴロヴァ一団の舞踏」は山田に少なからず失望を味わわせた。彼は演目名には触れずに、「露西亜舞踏特有の背景」と「パヴロヴァ自身の技巧のさえ」に「多少のよろこび」を感じたものの、彼女のバレエ団の「露西亜舞踏といつても寧ろ旧派に属する」保守的な姿勢を嗅ぎ取って、その「たはむれの多い」バレエそのものには「かなりの不快を覚え」たと、手厳しい言葉を容赦なく連ねている。不可解なことに、山田はそのとき実見したはずのフォーキンの新作については口を噤んだままである。「露西亜舞踏特有の背景」という大雑把な評言に、アニスフェリドが「キュビスム風」に仕立てたという舞台装置への一瞥が含まれているのか否かも定かでない。
ちなみに、文中の「伊太利舞踏的」なる形容は、ロシア・バレエの伝統がもっぱら歴代のフランス人舞踊家によって育まれてきた歴史的事実と明らかに食い違うが、山田はどうやらパヴロワのバレエの後進性にイタリア的な伝統が潜んでいると確信したらしく、これと相前後して記した別の文章【註62】でも、

 [……] ロヴァの舞踊は、伊太利舞踊の末流である、単に軽妙な露西亜舞踊の域を一歩も出てゐないやうである。[……] それ故、彼女の舞踊に芸術的深みとか、力とか、陶酔とかを求めるのは無理であらう。たゞ、その霊妙の境に入つた技巧は、単にそれだけとして、批評の余地のないもので、観衆をして思はずも恍惚の境に彷徨せしめる力を持つてゐる。しかし、前にも一言したやうに、これは彼女の内部に蔵されてゐる芸術のあらはれではなく、磨き上げた技巧の極にある、芸のたはむれであるともいふことが出来る。

と、同様の趣旨をいっそう敷衍した形で述べている。ニジンスキーを回想する際とは異なり、山田のパヴロワ評では個々のバレエの具体的な細部が言及されないため、なぜそう感じたのか、拠って立つ根拠に乏しい憾みがある。かてて加えて、彼は数年後のアメリカ滞在中さらに二度(自身の記述によれば1919年と21年)パヴロワの舞台に接しており【註63】それらの鑑賞体験から受けた幻滅や落胆がその評価に影を落としている可能性も否定できない。
 

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『キズメット』に出演中のロシャナーラ(1911年、ロンドン)
出典:Nesta Macdonald, Diaghilev Observed by Critics in England and the United States 1911-1929

露西亜の一流の女踊手が来て「お客様興行」をやった
歯に衣着せぬ山田のパヴロワ評はまだ続きがあるのだが、それを引く前に、同じ機会に隣り合った席で鑑賞した斎藤佳三が残した回想を紹介しておこう。われわれにとって幸いなことに、斎藤は個々の演目を追いながら逐一その印象を書き留めており、漠然とした山田の回想を補完するうえで恰好の検討材料となろう。しかも執筆年代が実体験から三年後の1916(大正五)年ということも手伝って、記述内容の信憑性は高いと考えられる。
「欧洲で見た踊りの印象」と題するその文章【註64】で、斎藤はまず西洋の「踊り」、すなわち Ballett(バレット)について手短に説明し、それが人間の心の動きと直結し、音楽とも分かち難く連携した「立派な芸術品」であると前置きしたうえで、その実例としてベルリンで観たパヴロワの舞踊を引き合いに出す。

一番最初に此種の「踊り」を見たのは一九一三年の正月、伯林の「王様のお邸」に建つてゐる、俗にクロル、オペラと称する、「新らしき、オペラ劇場」であるのです。其処でアンナ、パヴロヴァと云ふ最早、世界で知らぬ人のない程有名な露西亜の一流の女踊手 [バレリナ] が来て「お客様興行」をやつてゐたのです。[……]
*引用文中[ ]内はルビ、下線部は原文太字。

まずここで観劇の時期が「1913年1月」と明記されるのが注目されよう。斎藤は当日のプログラム冊子(連載第7回の挿図参照)を手元に置いて執筆しているので、その記述には信頼が置けるのである。「お客様興行」とは耳慣れない語だが、プログラムに記された “Gastspiel”(客演)の直訳であろう。「王様のお邸」とは誤訳で、広大な公園ティーアガルテン内の「国王広場 Königsplatz」のこと。クロル歌劇場(新王立歌劇場)はこの広場に面して建っていた。

私の参りました時は、もう第二の三番目の「蛇の踊」といふのをロスツァナーラといふ恐ろしく腕の長い女が、面 [=真?] 白い幕の間から片腕を出して、拇指と食指の間とそれから小指の処に、宝石で拵らへた目をつけて、手首から先が蛇の頭に見える様にして、其白い幕を攀ぢ登つたり、辷つたり、怒つたり、苦しんだりして、蛇の心だか嫉妬の心だか分らない様に見物をじりじりさせてゐました。私は其時なんでもダヌンチヨが自分の芝居をよく演じてくれるイダ、ルビンスタインといふ非常に腕の長い女優のため、其頃、芝居を一つ書いたといふ事を聞いたので、其女優の腕も恁麼 [こんな] に長いのぢやないか知らん、など考へながら、大した興味も感ぜずに、第三の舞台に移つてゐました。[……]

どうやら斎藤はこの日、なんらかの理由で遅刻したらしい。そのためプログラムの「第一部」を丸ごと見逃してしまい、「第二部」の途中(第三演目)からの鑑賞となった。慌ただしく着席するや否や、いきなり「恐ろしく腕の長い女」による面妖な「蛇の踊」を見せつけられて、さぞかし当惑させられたことだろう。正体不明の女性が幕の陰に身を潜め、そこから腕だけ出して蛇のようにくねらせる──バレエとは明らかに別種の、芝居小屋の見世物めいた「雑芸」が、フォーキンの「総合芸術」と並んでパヴロワのベルリン公演で演じられたとは驚きである。パヴロワが本拠とするロンドンのミュージック・ホールならばともかく、歌劇場の大舞台に「蛇の踊」はどうみても場違いであろう。
さらに驚かされるのは、この蛇踊りのダンサーの意外な経歴である。斎藤の記す「ロスツァナーラ」は正しくはロシャナーラ(Roshanara 1894~1926)といい、インド人の父とイギリス人の母との間にカルカッタで生まれた(本名オリーヴ・クラドック Olive Craddock)。インド各地で民族舞踊を学んだのち1909年前後に渡英し、高名な女性舞踊家で興行師のロイ・フラーに才能を見出された。1911年5月、アラビアを舞台にした劇『キズメット』のロンドン公演に抜擢されたあと、同年秋のバレエ・リュスのロンドン公演ではなんと『シェエラザード』のゾベイダ役を踊っている(カルサーヴィナの代役)。同じロンドン公演にパヴロワも参加していたところから、誘われてパヴロワのバレエ団に加わり、そのままイギリス国内巡業に同行してキャリアを積んだ【註65】ベルリン公演で踊ったのはそれからほぼ一年後のことである。無名同然のロシャナーラが短期間のうちに相次いでロイ・フラー、ディアギレフ、パヴロワらの愛顧を得るに至ったのは、もちろんそれなりの技量と美貌が備わっていた故だろうが、当時のヨーロッパでは本場のインド舞踊を習得したダンサーがまだ珍しかったことも大きく作用したと推察されよう。
パヴロワのバレエ団を去ったのち、ロシャナーラは単身アメリカに渡り、1917年にはロシア人舞踊家アドルフ・ボリム(ボルム)の率いる巡業バレエ団「バレエ=アンティーム Ballets-Intime」に加わって各地でインド舞踊を披露している。この「バレエ=アンティーム」には奇しくも同時期(すでに舞踊家として一家をなしていた)伊藤道郎も参加しているので、斎藤と山田がベルリンでロシャナーラの「蛇の踊」を観たという事実も、単なる一過性のエピソードという以上の意味を帯びてくる【註66】
ロシャナーラの長い腕の動きを眺めながら、同じように「非常に腕の長い女優」イダ・ルビンシュテインをふと想起したと斎藤が記すのも興味深い。わが国ではすでに『死の勝利』などガブリエーレ・ダンヌンツィオの作品が翻訳を通じて熱心に読まれており、斎藤もまたダンヌンツィオとの絡みで舞踊家ルビンシュテインに関心を抱いていたことがわかる。因みに、ここでダンヌンツィオが彼女のために「其頃、芝居を一つ書いたといふ」と言及される新作はおそらく『ラ・ピザネル La Pisanelle』を指す。いずれ本連載でも、1913年6月そのパリ初演に遭遇した島崎藤村と小山内薫の鮮やかな観劇体験を紹介することになろう。
このロシャナーラの出番のあと休憩を挟んで、公演はいよいよ後半に入る。斎藤は続けて「第三部」を次のように記す。

[……] 第三の舞台では、大勢の踊るマツルカ(ポーランドの踊)とツァルダス(ハンガリーの踊)とバラーデ(小唄)及其ヴァリアティオネィンと、でした。此小唄のヴァリアティオネンを最初、ノヴィコフが踊り、第二のヴァリアティオネンをアンナ、パヴロヴァが踊つたのです。私は此時私の心の中では手を拍つて『実に面白い事だ』と云つてゐたのを覚えて居ります。一つの小唄が色々に品を変へて出て来る、[……] 音楽でさへ、色々に味ひ分ける暇がない程多様に思ふのに、一つ主曲 [テイマ] をヴァリアティオネンにして踊る、なんて面白い事だと、両手をちやんと膝の上に置いて考へてゐました [。]

以上の記述から、「第三部」は三つの短い舞曲(場面)を組み合わせた「ディヴェルティスマン」構成だったことがわかる。そのうち初めの二曲、「大勢の踊るマツルカ(ポーランドの踊)とツァルダス(ハンガリーの踊)」は、12月末に伊藤道郎が観劇して書き留めた「マズルカ」(グリンカ作曲)と「チャールダーシュ」(グロッスマン作曲)とおそらく同演目である。伊藤が観た日にはこれらは「第一部」で踊られているところから、斎藤と山田の二人が足を運んだのは伊藤とは別の日であったことが改めて確認できよう。
続く三曲目では「バラードとヴァリアシオン」が演じられた(楽曲は不明)。冒頭の「バラード」でまずパヴロワがパートナーのノヴィコフとともに登場して古典的なパ・ド・ドゥーを披露し、それに続く「ヴァリアシオン」すなわち独舞(パ・スル)では最初にノヴィコフが、次いでパヴロワがそれぞれソロを踊った。文中で斎藤が「ヴァリアシオン」を誤って音楽の「変奏」の意味に解しているのは、バレエ初心者として無理からぬところだろう。

さてアンナ、パヴロヴァと云へば、すぐ後に彼のノヴィコフといふ男の踊手とフォキンと其親戚関係のある画家レオン、バックストとを思ひ出すのであります。第四の舞台に這入ると、其フォキンの設計した舞台が三つ現はれました。第一はアマツォーネン、タンツ。第二は彼の有名な「死する白鳥」。それから「蝶々」なのです。此等の間には(疲れて続けさまには踊れないから)パデレヴスキの、メヌュエット。ジョパンのワルツァ。ドヴォリャクの海賊の踊。等がノヴィコフ其他の踊手によつて踊られました。

最後の「第四部」もまた、小品バレエを連ねた典型的な「ディヴェルティスマン」構成である。そのうちパヴロワが登場したのは「アマゾンの踊り」「瀕死の白鳥」「蝶々」の三演目。斎藤の記述を信ずるならば、これらはいずれも「フォキンの設計した舞台」、すなわちフォーキンの振付作品だったという。ただし「疲れて続けざまには踊れないから」、合間には適宜パヴロワが登場しない小品バレエが挿入されていた(ドヴォルザークの楽曲による「海賊の踊」については未詳。「ピエロの踊」の誤読かもしれない)。
パヴロワ最大の当たり狂言「瀕死の白鳥」については後に回すことにして、ここでは他の二作に触れておこう。「アマゾンの踊り」は手許のパヴロワ文献に言及がないため詳細は不明だが、イダ・ルビンシュテインの依頼でアナトーリー・リャードフが作曲した同名の管弦楽小品(1910年)が存在するので、あるいはこの曲に振り付けたフォーキンの新作だったかとも想像される。一方、「蝶々」と題されたバレエはパヴロワのレパートリーに複数あり、そのいずれかが上演されたとおぼしいが、パヴロワは1909年秋にマリインスキー劇場でニジンスキーとともに「蝶々」なるパ・ド・ドゥー(ボリス・アサフィエフ作曲)を踊ったことがあり【註67】これをフォーキンが再振付した可能性もある。
さて、ここまで紹介してきた斎藤佳三の記述をもとに、当日のプログラムを復元してみると、不完全ながら以下のとおりになる。

■第一部
不明
■第二部
(1) 不明
(2) 不明
(3) 蛇の踊り(楽曲不明)*出演/ロシャナーラ
■第三部
(1) マズルカ(グリンカ作曲)
(2) チャールダーシュ(グロッスマン作曲)*出演/ガシェフスカ、シュワロフ?
(3) バラードとヴァリアシオン(楽曲不明)*出演/パヴロワ、ノヴィコフ
■第四部
(1) メヌエット(パデレフスキ作曲)
(2) アマゾンの踊り(リャードフ作曲?)*振付/フォーキン 出演/パヴロワ
(3) ワルツ(ショパン作曲)
(4) 瀕死の白鳥(サン=サーンス作曲)*振付/フォーキン 出演/パヴロワ
(5) 海賊の踊り(ドヴォルザーク作曲)
(6) 蝶々(アサフィエフ作曲?)*振付/フォーキン 出演/パヴロワ

こうして通覧してみると、パヴロワのバレエ団のプログラム編成があくまでも小品中心主義、すなわち「ディヴェルティスマン」を主軸として組み立てられていることが改めて実感される。この日の場合、後半の「第三部」「第四部」はいずれも数分程度の小品を連ねた「ディヴェルティスマン」の典型であり、記録が不完全な「第二部」にしても、ロシャナーラの「インド舞踊」で締めくくられる諸国舞踊の「ディヴェルティスマン」だったと看做すことができよう。
したがって、斎藤が惜しくも見逃してしまった「第一部」こそが、フォーキンによる新作『山の魔王の七人の娘』、もしくは『レ・プレリュード』の上演枠であったと断定できる。ベルリン公演における最大の呼び物だったはずの演目を冒頭にもってくる真意はいささか理解しにくいが、十年後の日本公演でも一幕物のバレエで開始された例があるので、あるいはこれが平素からのパヴロワの流儀だったとも推察される。
さらに想像を逞しくするなら、山田もまた開演時刻に間に合わなかったのかもしれない。二人揃って「第二部」の途中から鑑賞したのだとすれば、彼らは終始一貫「ディヴェルティスマン」、すなわち脈絡なく繰り出される小品ばかりを延々と見せつけられたことになる。山田がこの日の印象を「伊太利舞踏的たはむれの多いパヴロヴァ一団の舞踏そのものには、かなりの不快を覚えずにはゐられませんでした」と苦々しく総括するのも、そう考えると合点がいくのではないか。
まことに皮肉な成り行きだが、「総合芸術」を目指したフォーキンの意欲的な新作を観る機会を逸したことで、結果的に彼らはパヴロワのバレエ団の偽らざる「素顔」に触れたといえるかもしれない。

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「瀕死の白鳥」を演ずるアンナ・パヴロワ(1913年頃、ベルリン)

敬虔な心持と称讃の心持で一杯になった
慧眼な山田のことだ。先般つぶさに味わったバレエ・リュスの舞台との隔たりのあまりの大きさに、落胆の溜息を洩らしたに違いない。台本、振付、音楽、舞台美術のすべてが相乗的に作用して、驚嘆すべきスペクタクルの域に達していた「総合芸術」と比べれば、もっぱら個々のダンサーの技量に依存するアンナ・パヴロワのバレエ団はあらゆる面で貧弱で見劣りがしたはずである。なによりも、そこにはドビュッシーやストラヴィンスキーの音楽が欠落していた。陶然と舞台に見とれる隣席の斎藤に向かって、「本当のロシア・バレエはこんな代物じゃないんだ」と語りかけたい衝動に駆られたことだろう。
斎藤にとっても、パヴロワ公演のすべてが感銘深い体験だったわけではなかったはずだ。演目の紹介にかなりの紙数を費やしながら、バレエそのものに対する感想や称賛めいた記述に乏しいのがその証である。その彼が異例なまでに力を籠めて舞台の印象を伝えようと努めたのが、ほかならぬパヴロワ畢生の名作「瀕死の白鳥」についてであった。

一番有名な彼の「死する白鳥」では、白鳥が明るい宮殿の庭の池から出て来て、先づ、思ふ様に、太陽の暖かい光りを呼吸してゐるのです。此情緒を揺すり出してゐる静かな、そして上品な音楽は、現代仏蘭西一流の作曲家のサン、サンによつて作られたのです。最初此音楽を聞き彼の「踊り」を見てゐる内、心の内では色々勝手な想像を起こしてゐました。羽根よりも柔かい、柔かい絹の衣裳を着けた純白のパヴロヴァが、非常に軽快に、容易に足の指先きで、或は飛ぶ如く或は駈けるが如く或は座するが如く踊つてゐる反面、私は又白鳥の羽根よりも軽るい、静かなサン、サンの音楽に呼びとめられて[……]、目と耳とが二様に動いて居りました。遠近を眺める写真の、眼鏡を窺つた時に感ずる様に、最初はどうしても帰一しません。してゐる内眼鏡からピチッと景色が生れ出した時の様に、音楽だか「踊り」だか分からない程醇化した一つのものが感ぜられて来ました。「死する白鳥」あれは決して初めて見た「蛇の踊」の様なそんな安価な写真的の描写ではありませんでした。此時私は、何んでも、ものをいふ必要はない、何んにも口やかましく説明する必要はない。自己のエントヴィクルンク [Entwicklung=発展] を望む者は速に来れつて云ふ様な、敬虔な心持と称讃の心持で一杯になつてゐました。


「或は飛ぶ如く或は駈けるが如く或は座するが如く」変化する表情豊かなパヴロワの仕草をひたすら凝視する「目」。サン=サーンスの「静かな、そして上品な音楽」を聴き逃すまいとする「耳」。二つの器官が別々に作用し始めて「どうしても帰一し」ないもどかしさを覚えていたところ、やがて立体写真の焦点がピタリと定まるように舞踊と音楽とが融合する瞬間が訪れ、「醇化した一つのものが感ぜられて来ました」。言葉にならない情動が沸き起こり、「敬虔な心持と称讃の心持で一杯になつてゐました」。彼はこのバレエを心ゆくまで味わったのだ。

「瀕死の白鳥」に突き動かされたのは斎藤だけではなかった。パヴロワの旧弊な姿勢をあれほど辛辣に批判していたはずの山田すらが、このバレエには無条件で手放しの讃辞を捧げているのである【註68】

 [……] が、場面が一転して、瀕死の白鳥に扮した彼女が舞台に現れた時には、その瞬間から、凡ての批評の眼を曇らされてしまひました。パヴロヴァが、殆ど息をつく暇も与へず踊り終つたとき、私は隣席の斎藤君の潤ひ輝いた眼に眼を合せて、心底から肯き合つたことでした。勿論八年前のパヴロヴァは肉体的にも舞踏的にも爛熟の極にあつたのでせうし、また、その時の音楽が本式に竪琴 [ハープ] で奏されたためもあつたでせうが、私はたゞ、彼女の、白鳥の踊り一つの故に、例になくパヴロヴァの技能に随喜感激して、その後は書肆をあさつて彼女の舞踏に関する文書や彼女の自叙伝などを好んで耽読したものでした。

パヴロワが「瀕死の白鳥」(原題は単に「白鳥」)を初めて演じたのは1907年12月22日(旧暦)、ペテルブルグで催された慈善公演の折りだった【註69】振付はミハイル・フォーキン、白鳥の翼を模した衣裳デザインはレオン・バクストの手になる。27歳だったパヴロワは、それから歿するまでの23年間、この小品を世界各地で数限りなく踊り続けるのだが、ベルリンでの上演は彼女にとって殊のほか感慨深く、格別の緊張を強いるものだったはずだ。なにしろ、振付家その人が舞台袖に控えていたのだから。
それは魔法というほかない二分間だった。二人の日本人青年は「殆ど息をつく暇も与へ」られないまま、身じろぎもせず憑かれたように舞台を見つめていた。

(続く)



【註】
57. 『山の魔王の七人の娘』のプロットは『千一夜物語』所収の物語「バスラのハッサン」を下敷きにしている。Cyril W. Beaumont, Michel Fokine and His Ballets, Dance Books, London, 1996, pp.102-03; Valerian Svetloff, Anna Pavlova, M. de Brunoff, Paris, 1922 (reprint: Dover, New York, 1974), p.110; Keith Money, Anna Pavlova: Her Life and Art, p.173.
58. Cyril W. Beaumont, Michel Fokine and His Ballets, p.102.
59. 舞台にはボッティチェッリの絵から抜け出たような裾の長い衣裳をまとった「愛」「光」「闇」「死」などの精が登場したという。Keith Money, Anna Pavlova: Her Life and Art, p.173.
60. これら二作の初演日に関しては以下の文献に依拠した。Lynn Garafola, Diaghilev’s Ballets Russes, Oxford University Press, New York & Oxford, 1989, pp.389-90.
61. 山田耕作「パロヴァの印象」(一)『東京朝日新聞』1922(大正一一)年9月13日朝刊3面。原文は総ルビ。
62. 山田耕作「アナ・パロヴァの舞踊」『作曲者の言葉』アルス、1922(大正一一)年、49~50頁。【初出:『サンデー毎日』1922(大正一一)年9月3日号】
63. 山田耕作「パロヴァの印象」(一)。
64. 斎藤佳三「欧洲で見た踊りの印象」『新演芸』1巻2号、1916(大正五)年4月、20~26頁。原文は総ルビ。
65. Nesta Macdonald, Diaghilev Observed by Critics in England and the United States 1911-1929, Dance Horizons & Dance Books, London, 1975, p.61.
当時のロシャナーラを被写体とするスタジオ写真22枚(1913年、バッサーノ撮影)がロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに現存し、うち数枚には「蛇の踊り」と思われる舞踊が写っている。[→画像参照]
高名な写真家ホッペ(Emil Otto Hoppe 1878-1972)が撮影したロシャナーラの「蛇の踊り」も併せて参照されたい(『ライフ』誌掲載、1918年)。[→画像参照]
66.「バレエ=アンティーム」時代のロシャナーラと伊藤道郎に関しては、以下に短い言及がある。Suzanne Carbonneau, “Adolf Bolm in America,” Lynn Garafola & Nancy Van Norman Baer (ed.), The Ballets Russes and Its World, Yale University Press, New Haven & London, 1999, pp,224-25. ロシャナーラはその後もアメリカで公演活動を続けたが、32歳で早世した。ロバート・ヘンライ、トロイ・キニー、ハリー・タウンゼンドらが彼女の肖像画・版画を残している。
67. Bronislava Nijinska, Early Memoirs, Faber & Faber, London & Boston, 1981, p.281. このときの振付家はニコライ・レガート。
68. 山田耕作「パロヴァの印象」(一)。
69. Keith Money, Anna Pavlova: Her Life and Art, p. 71.