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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第4回ベルリンの青春 [2]
沼辺 信一

29/August/2009

シュトラウスの火焔のような形相が眼に入った
ニジンスキーのバレエを間近で観ようと、いつになく高価な切符を奮発して一階の平土間席に陣取った山田耕筰は、開演を前にして自席のすぐ近くに思いもよらぬ人物の姿を発見した。リヒャルト・シュトラウスその人である。
予想もしない成り行きに山田は動揺を隠せなかった。時ならぬこの邂逅について、それから8年ほどのちの『読売新聞』紙上で彼は次のように回想する。【註11】

[前略] 私がニジンスキイを観たのは一九一二年の春だつたと記憶する。処は伯林の皇立歌劇々塲で、出し物はマラルメの詩「牧神の午後」でデビツシーの作曲に成つたもの、「タマーラ」シユーマンの「カーニヴアル」などを主としたものであつた。
その晩は丁度「牧神の午後」の演出される晩で、幕の開く前、デビツシーの曲をニジンスキーがどんな風に運動化するかといふやうな事をそれからそれと考へながら、又その舞踊団の管絃団が果してその曲をどの程度まで完全に演奏するだらうかを思ひながら、近辺を見廻してゐると、恰度私の二側前に、自分の一番私淑してゐる全世界の有する最も大きな作曲家シユトラウスの火焔のやうな形相をした頭が眼に入つた。私はそれからといふものはニジンスキーに対する直接の期待を、何となしにシユトラウスの頭を通して間接に待つやうな気持になつた。

山田の回顧談はしばしば年代記述があやふやであり、ここで「一九一二年の春」とあるのは正しくは1912年12月である(同年末のバレエ・リュスのベルリン公演で『牧神の午後』が上演されたのは12月11日以降)。おそらく山田はこの時点でまだドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」(1894年初演)を実際に耳にしたことはなく、「デビツシーの曲をニジンスキーがどんな風に運動化するか」「舞踊団の管絃団がその曲をどの程度まで完全に演奏するだらうか」といった記述からは、彼にとってバレエ・リュス公演が何よりもまず同時代音楽との遭遇の場だったことが読み取れよう。フランスの同時代音楽に基づく新作バレエに、ほかならぬシュトラウスがどう反応するか──作曲家志望の青年の関心はもっぱらその一点へと注がれていく。ニジンスキーへの期待を「シユトラウスの頭を通して間接に待つやうな気持」とは、そのような屈折した心理状態を意味しているのであろう。
上に引用したニジンスキー回想の2年後の1923(大正一二)年、山田は『詩と音楽』誌上で「リルトシトラウの印象」と題して、事の顛末をさらに詳しく述べている。冒頭の「一九一七年の夏」はもちろん誤記である。【註12】

[前略] そのころ──それはたしか一九一七年の夏と覚へてゐます。──ロシア舞踊の名手ニージンスキーがはじめてベリーを訪れ、俗に Kroll Oper といはれてゐる第二王立歌劇場で開催しました。楽劇に飽き足りなくなつてゐた心を何処かでみたさうとしてゐた私は、ニージンスキーの踊りを、一夜もかゝさず熱心に見物したものです。
たしか第三日の晩だつたと思ひます。ニージンスキーはあの有名なデビゥッスィーの「牧神の午後への前奏曲」を、そのの中に加へました。私はこの一曲を十分に観照したいといふ心から、その夜は学生の身分をも忘れて I氏に招かれてはじめてシトラウを聴いた晩以来、ついぞ足ぶみしたことのなかつた上等席──オーケストラのうしろの割合にいゝ座席を買ひました。
開演に先立つ事一二分の頃でしたらう。私は一人の丈の高い紳士が私の三列ばかり前の席に腰をおろすのを眼ざとく見つけました。どうもその様子がシトラウに似てゐるやうに思はれてならなかつたのですが、それまで演壇におけるシトラウばかりに親しく[=ん]で来た私は、かうして観衆席で、間近に見ると、それがほんたうのシトラウであるかどうかがよく判らないので、そのまゝ一時間近くも、さうとは、はつきり知らずにすごしてしまひました。
そのうちに休息の時間が来ました。と、私の右にをつた音楽家らしい品のある老紳士が、しづかに自席をはなれて、その丈の高い紳士の傍へと歩みより、何か挨拶の言葉をのべはじめました。二人の紳士がその席から立ち上つて話してゐる容子を、見るともなしに見てゐるうちに、私はシトラウに似てゐると思つた紳士こそは、まぎれもないほんもののシトラウであるといふことに気づきました。それからといふもの、私はバレー其のものよりも、むしろ眼の前にゐるこの偉大な作曲者に、より多くの興味をおぼえ、その一挙一動を、ほとんどもらすことなく見まもつてゐました。

ここで山田が「ニージンスキーの踊りを、一夜もかゝさず熱心に見物した」と記すのにはいささか誇張がある。1912年末のバレエ・リュスのベルリン公演は11月21日から12月20日まで一か月に及ぶ長期興行であり、ニジンスキーはそのすべてに出演しているからである。山田が『牧神の午後』を観た当日はそのベルリン初演の12月11日以降だったはずで、したがってそれが「たしか第三日の晩だつた」という記述自体すでに、「一夜もかゝさず」観たという主張との間で矛盾を来しているのである。
当夜のプログラムについても山田の記述は不明瞭である。先に引用した『読売新聞』文中で言及された二つのバレエ、『タマーラ』と『謝肉祭』が、果たして同じその晩の演目に含まれていたかも定かではない。ただし、当時のバレエ・リュスの番組編成は一公演に15~20分程度の中篇バレエを四つ連ねるのが通例だったから(本連載第1回の【註2】参照)、休憩を挟んで前後に2作ずつを配し、最大の呼び物である『牧神の午後』を後半のトリに据えたと考えるのが理に適っていよう。バレエ・リュス公演では大がかりな舞台装置の転換に手間を要したため、演目の合間に少なからぬ待ち時間が生じるのが常であった。山田が目撃したシュトラウスらしき人物と知人との立ち話もおそらく中入りの休憩時でなく、『牧神の午後』に先立つそうした待ち時間に交わされたものと推察できよう。
いずれにせよ、山田は『牧神の午後』が上演されるその晩に限って、大枚をはたいて一階の「ついぞ足ぶみしたことのなかつた上等席──オーケストラのうしろの割合にいゝ座席」を確保した。この決断こそが彼を思いがけずシュトラウスとの接近遭遇へと導いたのである。とはいえ、彼が実物のシュトラウスを至近距離で眺めたのは2年前の1910年10月、奇しくも同じクロル歌劇場での『サロメ』上演時の指揮姿ただ一回だけだったから、「かうして観衆席で、間近に見ると、それがほんたうのシトラウであるかどうかがよく判らない」と一向に確信がもてなかったのも無理からぬところである。特徴的な「火焔のやうな形相」の頭部とはいえ、他人の空似という可能性もあり得るからだ。そもそもシュトラウスはこのとき本当にベルリンにいたのだろうか。

リヒャルト・シュトラウス(1910年頃)
出典=大田黒元雄『バッハよりシェーンベルヒ』1915(大正四)年

エルンスト・オップラー『ニンフたちと牧神』年代不詳 個人蔵
1912年末バレエ・リュスのベルリン公演の際にスケッチされたと思われる。
出典=Martine Kahane [ed.], Nijinsky, 2000

あのバレエ界最大の天才が演じるとご想像下さい
前回も触れたように、リヒャルト・シュトラウスはすでにディアギレフからバレエ・リュスのための新作バレエの作曲を依頼されていた。その打診はまずドイツの芸術支援者ハリー・ケスラー伯爵を介してなされ、シュトラウスの台本作者であるフーゴー・フォン・ホフマンスタールへと伝えられた。1912年3月8日付の手紙で、ホフマンスタールはシュトラウスに宛てて『オレステスと復讐の女神たち』と題するバレエを提案し、「オレステスはニジンスキーが、あの今日のバレエ界最大の天才が演じるということもご想像下さい」といささか興奮気味に書き送っている。【註13】
この第一案にシュトラウスが難色を示したため、ホフマンスタールは代案として旧約聖書の挿話に基づく『エジプトのヨセフ Joseph in Ägypten』なるプロットをケスラー伯と共同で書き上げ、6月23日付で作曲家に送っている。この第二案はほどなくシュトラウスの同意を得るところとなり、7月には早々と曲想スケッチが開始された。当時のシュトラウスはホフマンスタール台本による新作オペラ『ナクソス島のアリアドネ』初演を10月に控えて、その最終的な仕上げに余念がなく、また次回作『影のない女』の構想をホフマンスタールと練り上げるなど、多忙を極めていたのだが、四十代後半にして創作力の絶頂にあった作曲家はこのバレエを『アリアドネ』と『影のない女』を繋ぐ「中間の仕事として適当」と看做し、ニジンスキーのための新作を引き受けたのである。もちろん、ディアギレフから提示されるはずの高額の契約金も、シュトラウスにとってすこぶる魅力的な要因だったに違いないのだが。
すでに数多くの交響詩を上梓し、ホフマンスタールと協働して矢継ぎ早にオペラを創作してきたシュトラウスではあるが、バレエ音楽を手がけるのは実はこれが初めての機会だった。正式に作曲を受諾した以上、できるだけ早い時期にバレエ・リュスの生の舞台をつぶさに実見しておく必要が生じたのは明らかであろう。公刊されたシュトラウスとホフマンスタールの往復書簡集によれば、作曲家は1912年12月上旬にドレスデン経由でベルリン入りし、12月10日にウンター・デン・リンデン大通りのホテル・アドロンでホフマンスタールと面会した模様である。【註14】すでに『ヨセフ伝説 Josephslegende』と命名されていた次回作がこのとき話題の中心だったことは容易に想像できよう。
翌12月11日、ベルリン公演中のバレエ・リュスはいよいよ最大の話題作『牧神の午後』のドイツ初演日を迎えた。この晩、シュトラウスとホフマンスタールがともに正式な賓客として劇場に招待されたのは言うまでもない。ディアギレフがパリの興行師ガブリエル・アストリュックに12日付でベルリンから打電した電報によれば、当夜の『牧神の午後』上演は懸念されたパリ初演時のような混乱もなく、各界の名士たちを含む満場の喝采を浴びたらしい。【註15】

昨日の新歌劇場初日は大勝利。牧神にアンコール。カーテンコール10回。抗議なし。全ベルリンが列席。シュトラウス、ホフマンスタール、ラインハルト、ニキッシュ、分離派グループ全員、ポルトガル国王、大使たちと宮廷の面々。ニジンスキーに花環と花束。新聞各紙は熱狂。『ターゲブラット』紙にホフマンスタールが寄稿。皇帝・皇后・皇子ご一家は日曜 [=15日] にも再訪予定。皇帝からは愉しかった、団員に感謝するとの長いお言葉を賜る。目覚ましい成功。

同じ12日にホフマンスタールが知人宛てに書いた手紙にも、「並ぶ者なきニジンスキーと共にわれわれは何という宵を過ごしたことでしょう。誰もが幸福と興奮に溢れ──シュトラウス、リーバーマン [=マックス・リーバーマン、ベルリン分離派の画家]、ラインハルト、皆で愉しく参集しました」【註16】とあるので、ディアギレフが11日の『牧神の午後』初日について誇らしげに「全ベルリンが列席」と吹聴するのもあながち大袈裟とはいえないだろう。
ところで、山田耕筰が客席でシュトラウスと遭遇したのは、この11日の晩ではなかったように思われる。ドイツ皇帝一家の臨席のような晴れがましい出来事が彼の記憶に刻まれなかったとは考えにくいし、そもそも当日のシュトラウスは平土間の一般席からではなく、ディアギレフが特別に用意した招待客用のボックス席で(おそらくはホフマンスタールやケスラー伯と同席して)鑑賞したに違いないからである。シュトラウスはすでにかなり進捗していたバレエ『ヨセフ伝説』のピアノ譜をベルリンに持参しており、翌12月12日にはそれをディアギレフ、ニジンスキー、ホフマンスタール、ケスラー伯の前で弾いて聴かせ、相互に意見交換をする場を設けている。【註17】
その後のシュトラウスの足取りは判然としないが、少なくとも18日頃まではベルリンに滞在していたと考えられ、【註18】さらに何度かバレエ・リュスの舞台に触れる機会をもった可能性が高い。その際、ニジンスキーの身体表現をより深く理解する必要性を痛感したシュトラウスが、バレエ鑑賞に適した一階の平土間席を特に所望し、改めて至近距離からその所作の一部始終をつぶさに観察したと想像しうるのではないか。ベルリンでの『牧神の午後』上演記録から、それは12月12、13、17、18、19、20日のいずれかであると特定できる。【註19】

長く続いた舞台転換の作業がようやく終わり、クロル歌劇場内に開幕を告げるベルが鳴り響いた。シュトラウスは知人との立ち話を中断し、おもむろに自席に戻った。山田耕筰は期待で胸が高鳴るのを抑えることができない。
満場の拍手を浴びながら口髭を蓄えた小柄な指揮者が再びピットに姿を現し、客席のざわめきが収まるや即座に長いタクトを振り下ろす。物憂げに夢見るようなフルートの旋律が静かに流れだした。

(続く)

【註】
11. 山田耕作「ニジンスキーの舞踊を観た記憶 彼は死んだか」『読売新聞』1921(大正一〇)年3月29日朝刊7面。この一文はニジンスキーがウィーンで客死したとの誤報に基づいて記された。山田のまとまったバレエ・リュス回想としてはこれが最初のものと思われる。
12. 山田耕作「リルト シトラウの印象」『詩と音楽』2巻3号、1923(大正一二)年3月、71~72頁。
13. ヴィリー・シュー(編)『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』中島悠爾訳、音楽之友社、2000(平成一二)年、150頁。以下に論ずる『ヨセフ伝説』の進捗状況やシュトラウスの動静も、おおむね同書所収の往復書簡に依拠した。なお引用箇所では固有名詞表記をわずかに改変してある。
14. 『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』179頁。ホフマンスタールからシュトラウスに宛てた1912年12月9日付の手紙に、「ではあすの晩、アドロンでお目にかかります」とある。
15. ニューヨーク舞台芸術公共図書館(リンカン・センター内)のガブリエル・アストリュック資料より。出典は Richard Buckle, Nijinsky, Penguin Books, Harmondsworth, 1975, p.316.
16. Marie-Therese Miller-Degenfeld [ed.], The Poet and the Countess: Hugo von Hofmannstahl's Correspondence with Countess Ottonie Degenfeld [reprint], Camden House, Rochester, 2008, p.205.
17. 『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』180~81頁。リチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』上、鈴木晶訳、リブロポート、1983(昭和五八)年、276~77頁にもそれに関連した記述がある。
18. 『リヒャルト・シュトラウス ホーフマンスタール 往復書簡全集』182頁。
19. Jean-Michel Nectoux [ed.], Afternoon of a Faun: Mallarmé, Debussy, Nijinsky, The Vendome Press, New York & Paris, 1989, p.126.