連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第5回ベルリンの青春 [3]
沼辺 信一
30/September/2009
だるい夢のようなフルートの旋律が浮かび上がってきた
舞台転換の長い休憩が終わり、その晩の最後の演目である『牧神の午後』がようやく開始された。客席の山田耕筰はすぐ目前に坐したリヒャルト・シュトラウスの頭越しに、固唾を呑んで舞台を見つめていた。【註20】
やがて呼込みのベルがひゞきわたつて、人々は自席に帰りました。シトラウスもまたその老紳士とわかれて、しづかにその席につきましたと見るち[=う]ちに、その夜の指揮者であるビーチャムが、瓢軽な姿をボックスの中に現はして、いきなり指揮棒をふり上げました。それにつれてだるい夢のやうなフルートの旋律が、オーケストラのボックスから浮び上つて来ました。つゞいてホルンのものうい響きにつゝまれて、ハープが華麗なグリッサンドをその絃上に弾き出すと同時に、幕は静かに上つて、「牧神の午後」の舞台面は、私たちの眼前に展開せられました。
舞台の背面は一面たゞれたやうな紫にぬりつぶされ、舞台全体がだるい、それでゐて眩ゆいやうな色調につゝまれてゐました。中央には小高い丘があつて、その下には小さい流れを暗示するやうな、青い布がしき流されてゐます。丘の上に静かに眠つてゐる牧神こそは、いふまでもなくニージンスキーなのです。
忘れずにまず附言しておくと、山田は当夜の指揮者の名をトマス・ビーチャムと記すが、これはピエール・モントゥーの誤りだと考えられる。先述したように、この1912年暮のバレエ・リュスのベルリン公演にはわざわざロンドンからビーチャム交響楽団が招聘されてピットに入ったのだが(連載第3回を参照)、オーケストラ創設者で常任指揮者のビーチャム自身は公演には関与せず、全演目の指揮はバレエ・リュスの座付指揮者モントゥーの手に委ねられた。【註21】山田が記す「瓢軽な姿」という形容もモントゥーにこそふさわしかろう。ちなみに同年5月から6月にかけてパリのシャトレ座で『牧神の午後』と『ペトルーシュカ』が初演された際の指揮者もモントゥーその人だった。
さすがに自ら作曲家だけあって、ドビュッシーの音楽を叙述する山田の筆は正確で抜かりがない。このバレエが依拠する「牧神の午後への前奏曲」は確かに彼が記すとおりフルートの「だるい夢のやうな」独奏で開始され、4小節目でホルンの「ものうい響き」が加わり、そこに目の覚めるようなハープの「華麗な」グリッサンドが重なる。このホルンとハープの印象的な掛け合いは、全休止を挟んで7小節目に再び繰り返されたあと、11小節目からはフルートの独奏主題が回帰し、今度は小刻みな弦楽合奏を背景に紡がれる。
ニジンスキーは初めての創作バレエである『牧神の午後』の振付の一部始終を、のちに独自の記譜法による綿密な舞踊譜に書き留めている(1915年8~9月)。近年アン・ハッチンソン・ゲストの研究【註22】により解読されたその譜表を参照すると、バレエの幕が上がるタイミングは山田の記すようにホルンとハープの掛け合いの箇所(4もしくは7小節目)ではなく、冒頭のフルートの独奏の開始時と指定されている。幕が上がるとすでにニジンスキー扮する牧神は舞台中央やや下手寄りの小高い丘に横たわり、左肘をついて上半身を起こしながら、フルートの旋律につれ右手に持った牧羊笛を掲げて吹く仕草をする(3小節目)。これが実際に山田の目にした冒頭部分の振付だったはずである。【註23】
山田の視線はまずレオン・バクストのデザインになる背景画へと注がれる。そこには一面にそそり立つ急峻な斜面が描かれ、糸杉などの木立が岩肌にへばりつくように散在する。上手寄りに大きく描かれるのは滝であろうか。地中海特有の澄んだ青空はなく、全体が岩と樹木とで埋め尽くされる眺めは、ドビュッシーの音楽が要請する牧歌的なギリシア風景としてはいささか不似合いにも思える。この背景幕は舞台前面のプロセニアムからわずか2メートルほどの近さで設置されたので【註24】、平土間席から至近距離で見上げた山田はその威容に圧倒される思いだったろう。目ざとい観察者である彼は、舞台中央に設けられた「小高い丘」の下に、「小さい流れを暗示するやうな、青い布がしき流されて」いるのを見逃さなかった。『牧神の午後』の実際の舞台を撮影した記録写真が乏しいため(ほとんどがスタジオ撮影)、「青い布」の存在は確認できないが、山田の記述を信ずるならば、この小道具は『牧神の午後』中盤でニジンスキーが見えない障害物(小川?)を飛び越すようにジャンプする奇妙な仕草(後述)と関係があるかもしれない。
バクストが描いた舞台全景の構想案(グアッシュ画)をみる限り、背景の色彩はさまざまな諧調の緑と黄が綾なすモザイクの趣だったと思われるのだが、山田が実際の舞台から受けた印象は大きく異なり、「舞台の背面は一面たゞれたやうな紫にぬりつぶされ、舞台全体がだるい、それでゐて眩ゆいやうな色調につゝまれてゐ」たと、紫色がもたらす禍々しい効果がことさらに強調される。前回も引用した『読売新聞』への寄稿文でも、彼は似通った印象を書き記している。【註25】
やがて幕が開くと、小高い丘の上に濃い毒々しい紫が多様の色の真只中に張叫んでゐるやうなバツクを背にして、静かに寝てゐる牧神の姿を見た。あのだるいデビツシーの横笛の吹かれる牧神の一節[、]それを聞き乍ら、私の眼は直ぐ眼の前のシユトラウスの頭を踏み越へて、其のだるい而かも何となく引き締められるやうな場面に注がれた。[……]
ここでも背景の「濃い毒々しい紫」が「張叫んでゐるやう」だと強調される。感じやすい神経をよほど刺激されたに違いない。この舞台装置でバクストが用いた色彩と手法について、リチャード・バックルは以下のように解説している。【註26】「まるでバクストは、ドビュッシーの『印象主義』と釣合うようにと、『ナビ派』風の、あずき色と灰色と緑色の、まだらのカーテンをもちだしたかのようだ。そこに描かれた、岩や木や滝は、陰影も輪郭もない。この絵が描かれた背景幕は、かなり舞台前方、『二番目の脇幕』の位置にかけられた。舞台向かって左側に、牧神がのる壇がおかれた。それは盛りあがった草地にカムフラージュされ、背景と溶け合っていた」。ボナール、ヴュイヤールら「ナビ派」、あるいはゴーギャンの絵画のように、めくるめく重層的に響き合う色彩のなかで、山田は紫色にとりわけ過敏に反応したということなのであろう。
ニジンスキーは夢から目覚めた者のように踊り始めた
小高い丘の上のねぐらに横臥した牧神はまどろみから抜け出て、緩慢な動作を開始する。その一挙手一投足をも見逃すまいと、山田はすぐ前に坐ったシュトラウスの大きな頭部を掠めるようにニジンスキーの姿を凝視している。証言はさらに続く。【註27】
やがて最初のものうい旋律が、ふたゝびフルートにあらはれて来ると、ニージンスキーはそれにつれて、エジプトの浮彫を思はせる平面的な運動を見せながら、夢から目ざめたもののやうに、静かにをどりはじめました。けれども私の眼は、この名高い踊り手の姿を眼前にしてゐながらも、ともすればシトラウスの大きな頭の方に移つて行くのでした。私は私の尊敬するこの偉大な作曲者が、この踊を如何に感じ、その音楽をどのやうに感じるだら[う]といふことを、その首筋に現はれる運動によつて知りたいと思つてゐたのでした。
ニジンスキーの様式化された所作を、山田が「エジプトの浮彫を思はせる平面的な運動」と要約したのはさすがである。それは半年前パリのシャトレ座での初演時に同じバレエを鑑賞した石井柏亭が「出て来るニムフ等はみな希臘の瓶から歩き出したやうな形をして、手の動かし方足の運び方にアルカイックの趣を伝へた」(連載第1回を参照)と的確に評したのと双璧をなす表現である。よく知られるように、このバレエの振付に先立つ1910年、パリ滞在中のニジンスキーはディアギレフの勧めでルーヴル美術館の古代ギリシア陶器の展示室を訪れた。ディアギレフ自身が伝える挿話によれば、バクストと待ち合わせていたニジンスキーはなぜか訪れるべき部屋を間違えて、エジプト彫刻の展示室へ行ってしまった。上半身が正面向きで、頭と手足が横向き、移動は横方向のみという、『牧神の午後』で一貫して用いられる特異な所作はこうして生まれたとされる。【註28】このエピソードの真偽はともかくとして、ニジンスキーの振付を予備知識なしに実見した二人の日本人が、申し合わせたようにそれぞれ「エジプトの浮彫」と「ギリシアの瓶」を引き合いに出して論ずるのはまことに興味深い。
夢から目覚めた牧神の起居振舞について、山田はさらにその詳細を、クロースアップ映像さながらの精確さで書き留めている。【註29】
[……]と、牧神がその眠りから醒めて斜めに森の方を向いて、右手を延ばした時、私は初めてニジンスキーといふ人の筋肉の中に音そのものが通つて、その差し延べた指の尖端からも、稍々仰いでゐる首筋からも、或ひは前方に半ば曲げて延ばしてゐる左足の爪先からも、恰度噴水の水の上るやうに流れ出てゐる力を味得した。
「筋肉の中に音そのものが通つて」ニジンスキーの身体がドビュッシーの音楽と一体化するさまを鮮やかに捉えた一節である。牧神の全身に漲った音楽が、その指先、首筋、爪先から力の奔流となって「噴水の水の上るやうに」迸り出るという描写は、絶頂期のニジンスキーを間近に観察した者のみに許される表現であろう。舞踊家の身体を介して音楽と運動(舞踊)とが一つに溶け合う可能性を予感した山田は、帰国後ほどなくこれらの「姉妹芸術」の究極的な融合を夢見ることになるのだが、その発想はまさにニジンスキーの至芸を目の当たりにした瞬間に胚胎したものだった(山田耕筰が小山内薫、斎藤佳三とともに「新劇場」を結成し、石井漠ら舞踊家と推進した新舞踊運動については本連載でも後述する)。
ところで、牧神が「眠りから醒めて斜めに森の方を向いて、右手を延ば」す瞬間とは、具体的にどの場面のことなのか。解読されたニジンスキーの舞踊譜によれば、丘の上で目覚めた牧神は横たわった上体を半ば起こし、右手に笛を持つ(アドルフ・ド・メイエールが撮った有名な写真のポーズ)。やがてその笛を高く掲げて吹き(三小節目)、次いで笛を口から離して左手に持ち替え、横臥した体はそのままに、誰かやって来ないか確かめるように後方(舞台の下手方向)を振り返る(七小節目)。このとき頭部はわずかに前傾させ、体の両脇で腕を「V」字状にし、右手先は親指以外の四本指を揃えて横向きに伸ばし下手側へと向ける。文中にある「森の方」を、ニンフの棲み処、すなわち舞台の下手方向と解するならば、山田はまさにこの一瞬のニジンスキーの仕草を脳裏に焼きつけ、驚くべき正確さをもって「斜めに森の方を向いて、右手を延ばした時」と回想したことになろう(執筆はベルリンでの観劇体験から8年ほど経った1921年3月)。
このポーズをとるニジンスキーを撮影した写真は存在しないが、幸いにもパリで『牧神の午後』を実見した画家ヴァランティーヌ・グロスが客席の暗がりでスケッチした素描中に、まさにこの瞬間を捉えた一葉があり、山田がニジンスキーの肉体に「噴水の水の上るやうに流れ出てゐる力を味得した」決定的瞬間を彷彿とさせる。【註30】
そのとき初めて私はニジンスキーの高飛びを見た
ドビュッシーの音楽がさらに進み、フルートに冒頭の主題が三たび回帰すると(21小節目)、舞台下手から三人のニンフがしずしずと横移動で進み出る。続いて第四、第五のニンフが順次そこに加わり(それぞれ24、27小節目)、最後に28小節目で第六と第七のニンフが登場して全員が揃い、五番目のニンフを中央に横一列に並んで左右対称のポーズをとる(33小節目。ド・メイエールの写真が残る)。すでに引用した石井柏亭による「出て来るニムフ等はみな希臘の瓶から歩き出したやうな形をして、手の動かし方足の運び方にアルカイックの趣を伝へた」との評言が最もふさわしい場面である。山田の記憶のなかでは、いつしかニンフの数が少々減じてしまったようだ。【註31】
そのうちに五人の水精が恰も浮彫のやうに平面的な運動を見せて横一線に舞台へ進んで行つた時、急に牧神がその体を逆に捻つて彼の丘を下らうとした時、殆んど観客の全部がその一舞踏家の運動にひねられて、完く同方向に走つたのを見た。[……]
丘の上のねぐらからニンフたちの様子を注意深く窺っていた牧神は、体の向きを変え、笛を地面に置くとおもむろに立ち上がり(37~38小節目)、視線を前方(舞台上手)に固定したまま、高まりゆく音楽に合わせてゆっくり後ずさりしながら丘の斜面(階段)を降りていく(43小節後半~47小節目)。山田が記す「急に牧神がその体を逆に捻つて彼の丘を下らうとした時」とは、この一連の経過を指すものだろう。丘の上で怠惰に佇んでいた牧神がようやく行動を開始するというので、クロル歌劇場を埋め尽くす観衆(山田もシュトラウスもそのなかの一人である)の視線が、「一舞踏家の運動にひねられて」号令をかけたように一斉にニジンスキーの方向へと注がれる。当然といえば当然の反応なのだが、その場に居合わせた当事者のみが語りうる貴重な証言であろう。山田はさらにこう記す。
[……]さうして牧神はその丘から下りて、水精に戯むれる、水精の一人は彼女の薄衣を残して一様に去つて仕舞ふ。その時初めて私は平素から聞いてゐたニジンスキーの高飛びを見た。若し誇張していふ事が出来れば、この時ニジンスキーの体は丸で床を蹴つて飛上り、見えない迄その体を空間に支へ止めてゐるやうな、或は飛び上つた瞬間全くその体が観客の視線から消えて了つて、観客が驚嘆と驚異の夢心地から帰つた時──そして観客がその空間に眼を再び[戻]した時、その体が静に音もなく床の上に落ちて来るのを見た、といふ事が出来るであらう。それ程ニジンスキーの特殊な高飛びの術は優れたものであつたと憶えてゐる。
丘から降りた牧神はそこでニンフたちと出くわし、両者の間では無言のうちに驚愕・関心・凝視・威嚇・嘲弄などさまざまな関係性のドラマが生じる。山田が特筆する「高飛び」も、その過程で牧神が示す反応の一つだった。しかもそれは名だたる跳躍の名手ニジンスキーがこのバレエで披露する唯一のジャンプだったから、観衆に少なからぬインパクトを与えたに違いない。ただし、この「高飛び」は、山田の記憶するようにニンフたちがその場を立ち去ってからではなく、牧神とニンフの一人(主導的な「第五のニンフ」)とが接近遭遇するさなかで唐突に起こる(62小節目)。
ほんの一瞬の出来事ではあったが、この晩がどうやらニジンスキー初体験だったらしい山田には、ただ一度の「高飛び」が強烈な忘れがたい印象を残したようである。彼は言葉を尽くして興奮気味に、その跳躍がいかに現実を超えていたか──飛翔した身体が空中に留まり、しばし消滅したのち地上へと帰還する──を語ろうと努めている。彼は奇蹟を目にしたのだ。
(続く)
【註】
20. 山田耕作「リヒアルト シトラウスの印象」1923(大正一二)年3月、72頁。
21. Charles Reid, Thomas Beecham: An Independent Biography, pp.121-23. このときビーチャムは楽団とは別行動でベルリン入りし、12月16日と21日に(山田耕筰の母校である)王立音楽院で催されたビーチャム交響楽団の特別演奏会のみを指揮した。
22. Ann Hutchinson Guest [ed.], Nijinsky’s Faune Restored, Gordon and Breach Publishers, Amsterdam, 1991.
23. これ以降、本稿でのニジンスキーの振付の詳細はアン・ハッチンソン・ゲストの研究成果に拠った。併せてバレエの冒頭場面を手際よく要約したリチャード・バックルの文章もここで引用する。出典は Richard Buckle, Nijinsky, p.281.
「バレエはフルートの囀るような調べによって開始され、幕がゆっくり上がると、土手の頂に身を寄せる牧神の姿が現れる。左腕で体を支えながら右肘をもたげ、頭を後方に反らせ、笛を口にしている。その調べがハープのグリッサンドを伴うホルンへと部分的に谺し、再びフルートへと回帰するにつれ、牧神はぎくしゃくと様式化された身振りで動き始め、葡萄の房を一つ、また一つと顔に押しつける」。
24. Jean-Michel Nectoux [ed.], Afternoon of a Faun: Mallarmé, Debussy, Nijinsky, p.25.
25. 山田耕作「ニジンスキーの舞踊を観た記憶 彼は死んだか」(上)1921(大正一〇)年3月29日。
26. リチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』上、259頁。
27. 山田耕作「リヒアルト シトラウスの印象」72頁。
28. リチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』上、212頁。
29. 山田耕作「ニジンスキーの舞踊を観た記憶 彼は死んだか」(上)。
30. Richard Buckle [introduction & notes] and Valentine Gross [sketches], Nijinsky on Stage, Studio Vista, London, 1971, p. 94. ヴァランティーヌ・グロスは1912年のシャトレ座での『牧神の午後』初演時、もしくは翌13年のシャンゼリゼ劇場での再演時に客席からスケッチしたと考えられる。
31. 山田耕作「ニジンスキーの舞踊を観た記憶 彼は死んだか」(上)。