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連載「バレエ・リュスと日本人たち」 Ballets Russes et les japonais
第1回ニジンスキー「牧神の午後」をめぐって[上]
沼辺 信一

19/May/2009

『牧神の午後』幕切れのニジンスキー photo : Adolph de Meyer

その晩もシャトレ座は異様な熱気に包まれていた。
セルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が結成され、記念すべき第一回目のパリ公演を催したのはちょうど3年前の1909年5月19日、場所は同じこのシャトレ座だった。それまでオペラの添え物として演じられる「お上品な」バレエしか観たことのなかったパリの観客たちは、辺境の地からやって来た一座のダイナミックな群舞や超人的な妙技に圧倒され、強烈な色彩と異国情緒に満ちた衣裳や舞台装置に度肝を抜かれた。以来、毎年の恒例行事となったバレエ団の来訪を、この街の人々は心待ちにしていたのである。
1912年5月に幕を開けた今回のパリ公演では、新作四つを含めた十の演目が賑々しくプログラムを飾っている。なかでも注目の的となったのは、マラルメの詩に想を得たドビュッシーの管弦楽曲に振付を施した最新作『牧神の午後』。一座の花形ダンサー、ワツラフ・ニジンスキーが主役を演ずるばかりか、初めて振付まで手がけるという話題作だった。
5月29日に行われた『牧神の午後』の初演は轟々たるスキャンダルを惹き起こす。午睡から目覚めた古代ギリシアの牧神(ニジンスキー)が七人のニンフに遭遇し、翻弄された挙句、最後に一人取り残されるという単純な筋立てのバレエだったが、ニジンスキーの振付は、登場人物の動きを横移動のみに限定し、肩はほぼ正面向き、顔と手足は横向きという不自然なポーズを終始とらせるきわめて特異なものである。手足の動作も二次元的にぎくしゃくと様式化され、バレエならではの躍動感や流麗さとはおよそ縁がなかった。そのうえ、幕切れの場面で牧神がニンフの落としていったヴェールの上に腹這いになって腰を上下させる(あからさまな自慰の表現)に至っては、良識ある人々を怒らせるに十分だった。幕が下りると盛大な拍手とともにブーイングの嵐が巻き起こったのは当然の成り行きだろう。
翌30日の『ル・フィガロ』紙には一面に大きく弾劾記事が載った。ディアギレフも負けてはいない。手回しよく、当時のフランスを代表する彫刻家ロダンと画家ルドンにそれぞれニジンスキーの『牧神の午後』擁護の手紙を書いてもらい、対抗処置として31日の同紙に掲載させたのである(あらかじめ用意してあったのだろうか)。この「芸術か猥褻か」をめぐる論争は、結果としてバレエ・リュス側に有利に作用した。何しろそれからというもの、『牧神』上演日のチケットは連日完売となったのだから。抜け目のないディアギレフは、急遽『牧神』の上演日程を当初予定された四日間から倍の八日間へと変更して対応した。

石井柏亭が観たニジンスキーの4演目 : 左より『青い神』『シェエラザード』『薔薇の精』『牧神の午後』

ニジンスキーがいつも重要な役を務める
休憩時間のシャトレ座のロビーは人々の発散する熱気、香水と脂粉の匂い、煙草の煙でむせかえるほどだった。織るような人波を避けるように、片隅で二人の小柄な東洋人が寄り添って言葉を交わしているのが見える。周囲のざわめきに遮られて、会話の内容までは聞き取れない。だがわれわれにとって幸いなことに、彼らのうちの一人が次のような貴重な鑑賞記録を残してくれている。【註1】

八日
夜シャトレー座にロシアのバレーを観る。観やう観やうと思ひながら去年はつひ見ずにしまつた。明後日がもう其最終の日だ。入口で偶然安井に会つて一処に札を買つたが、もう明いた席がないので通路のやうな処に立つて観るより仕方がなかつた。非常な人気である。出しものは『青神【ヂユーブルー】』と『シェヘラザード』と『薔薇の精』と『ファウヌの午過ぎ』と云ふ其四つだ。背景と衣装とはいづれも露国の画家レオン・バクストの担任する処である。私は前にアール・デコラチーフのミューゼーで彼れの図案類の展覧されたのを観た。主なる踊り手はニジンスキーと云ふ男とカルサヴィナと云ふ女とで、ニジンスキーがいつも重要な役を勤める。『青神【ヂユーブルー】』では彼れは其身体【からだ】を真青にして、印度仏から工夫された奇妙な而かも敏活な踊りの手を示し、『シェヘラザード』では王妃の愛を被むる金色の黒奴に扮した。
『フアウヌの午過ぎ』は背景と舞踊と最絵画的で静かないゝ感じのものであつた。一体絵画的効果の上から云ふと斯う云ふ風な無言劇の方がよくはないものかなどゝ考へた。出て来るニムフ等はみな希臘の瓶から歩き出したやうな形をして、手の動かし方足の運び方にアルカイックの趣を伝へた。ニヂンスキーのフアウヌがニムフの一人の置き忘れた広帯を持つて、それに見入る処で幕になる形も奥床しい。

この簡にして要を得た感想を書き留めた人物は、画家の石井柏亭(1882~1958)である。彼は前年の1911(明治四四)年からヨーロッパに長期滞在し、広く諸国を旅しながら古今の美術への造詣を深めているさなかであった。文中に登場する観劇の道連れの「安井」とは、同じく画家でパリ留学六年目の安井曾太郎(1888~1955)のことであろう。
柏亭の鑑賞記録はいくつかの興味深い事実を教えてくれる。時ならぬ『牧神』騒動が効を奏して、チケットがすでに完売していたこと、にもかかわらずシャトレ座の窓口では当日券が発売され、立ち見でなら鑑賞できたこと、さらにはこの晩の『牧神』に対しては十日前の初演時のような混乱(騒然たるブーイング)は生じなかったらしいこと、などである。ニジンスキーは初日に巻き起こった非難轟々の声にいささか怖気づき、次回からは幕切れの振付に手心を加え、腰の上下運動を少しばかり控えめに改めたと伝えられる。そのためか、柏亭の観た晩は騒ぎめいたことは何も起こらなかったと推測される。少なくとも柏亭自身は、ニジンスキーの最後の仕草を「広帯を持つて、それに見入る処で幕になる形」と捉え、これを「奥床しい」と評したのだった。
それにしても驚かされるのは、この晩のプログラム構成である。柏亭の記した四演目がもし順番どおりだったとするなら、前半に『青い神』(新作)と『シェエラザード』、休憩を挟んで後半に『薔薇の精』と『牧神の午後』が上演されたことになるが、これらはすべてニジンスキーが主役、もしくは重要な役柄で登場する演目ばかりなのである。『青い神』で全身を青塗りにしたインドの神に扮した彼は、すぐさま体を黒く塗り替え、『シェエラザード』の後半でアラビアの後宮に仕える「金の奴隷」として登場しなければならない。休憩後の二演目ではどちらも出ずっぱりの主役、それも『薔薇の精』ではうら若き乙女(タマラ・カルサーヴィナ)が夢に見たロマンティックな薔薇の精、『牧神の午後』では野蛮で好色な森の半獣神という、それぞれ全く異なったキャラクターを演じ分けねばならなかった。このときニジンスキーが23歳という若さの盛りにあり、並外れた瞬発力と持久力の持ち主だったとはいえ、これではいくらなんでも過酷すぎはしないか。柏亭はこともなげに「ニジンスキーがいつも重要な役を勤める」と記すが、実のところ途方もなく荷の重い番組編成だったと言わねばなるまい。
シャトレ座の売店で売られていたバレエ・リュス公式プログラムによれば、柏亭の観た日はもともと新作『ダフニスとクロエ』(ラヴェル作曲)の上演に充てられており、これに『シェエラザード』と『タマーラ』(新作)が併演される予定であった。【註2】 ところが、ニジンスキーを公私ともに寵愛し、主演ばかりか振付すら委ねようとするディアギレフと、それまで一座の全演目を振り付けてきたミハイル・フォーキンとの間で諍いが生じたため、ディアギレフは『牧神の午後』の評判に乗じ、半ば強引に『牧神』をメインに据えた「オール・ニジンスキー・プロ」を編成し、フォーキンが全力で取り組んできた『ダフニスとクロエ』を押し除けてしまったのである(結局、『ダフニス』はわずか二晩演じられただけだった)。【註3】 この事件が原因となってディアギレフとフォーキンとの関係に決定的な亀裂が生じ、フォーキンはほどなく一座からの退団を余儀なくされた。柏亭は期せずして、このバレエ・リュスの転換点ともいうべき歴史的な現場に居合わせてしまったことになる。

(続く)

【註】
1. 石井柏亭『欧洲美術遍路』下巻 東雲堂書店、1913(大正二)年、193~94頁。この書物に収録された紀行文のほとんどは、彼が現地から『東京朝日新聞』『みづゑ』『美術新報』『朱欒』などに書き送ったものであるが、引用箇所(「仏京一個月」と題されたパリ日誌の一部)については初出紙誌を確かめられなかった。柏亭のこの一文はおそらく日本人がリアルタイムで書き綴った最初のバレエ・リュス体験記と思われるが、『欧洲美術遍路』下巻が刊行された時点(1913年12月)で、すでに小山内薫と島崎藤村によるパリでの鑑賞記録(1913年6月、シャンゼリゼ劇場)が一足先に東京朝日新聞にそれぞれ掲載されていた。なお、柏亭は文中で(1912年の)6月8日にバレエ・リュスを観たと記すが、この日付の信憑性については【註3】で検討する。
2. ニジンスキーの歿後50年を記念して催された展覧会『ニジンスキー Nijinsky 1889-1950』(オルセー美術館、2000~01年)に出品されていた1912年の「バレエ・リュス公式プログラム Programme officiel des Ballets Russes, septieme saison…Theatre du Chatelet, mai-juin 1912」によって確認したところ、当初予定された日程と番組編成は以下のとおりであった。
●第一プロ/5月13日、15日、17日、18日
『青い神』(レイナルド・アーン作曲)[初演]
『薔薇の精』(カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲)
『火の鳥』(イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲)
『イーゴリ公』よりポロヴェツ人の踊り(アレクサンドル・ボロディン作曲)
●第二プロ/5月20日、22日、24日、25日
『タマーラ』(ミリー・バラキレフ作曲)[初演]
『ナルキッソス』(ニコライ・チェレプニン作曲)
『イーゴリ公』よりポロヴェツ人の踊り
『ペトルーシュカ』(イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲)
●第三プロ/5月29日、31日、6月1日、3日
『牧神の午後』(クロード・ドビュッシー作曲)[初演]
『薔薇の精』
『青い神』
『火の鳥』
●第四プロ/6月5日、7日、8日、10日
『ダフニスとクロエ』(モーリス・ラヴェル作曲)[初演]
『シェエラザード』(ニコライ・リムスキー=コルサコフ作曲)
『タマーラ』
3. 上演に一時間近くを要する『ダフニスとクロエ』は、[註2]に記した「第四プロ」のメイン作品として6 月5 日に初演される予定だったが、何らかの理由から6 月8 日に延期された。したがって、フォーキンが長らく練習に力を注いできたこの大作は、この初演日と6 月10 日との二回のみ上演されるにとどまった。『ダフニス』が演目から外された5日と7日には『牧神の午後』を中心とする臨時プログラムが組まれたらしい。
さらに本来なら『牧神』と『ダフニス』とは同じ日には上演されないはず(どちらも古代ギリシアを舞台としているという理由で)だったのに、結局『牧神』は6月8日にも10日にも併演された(以上はJean-Michel Nectoux [ed.], L’Apres-midi d’un Faune, Edition de la Reunion des musees nationaux, Paris, 1989, p.46の『牧神』上演記録に基づく筆者の推定)。つまりディアギレフの意向で『牧神』は予定を倍する八日間も舞台にかかり、『ダフニス』はわずか二日きりの上演となったわけで、これでは面子を潰されたフォーキンが激怒するのも無理はない。
ところで柏亭は自分の観た公演の日付を6月8日と明記しているが、これは先述の『ダフニスとクロエ』初演の当夜にあたっており、公式記録とは演目内容が合致しない。この日『ダフニス』初演に先だって別演目のマチネー公演があったとも考えにくいので、柏亭の記載した日付が誤っていると結論づけざるを得ない。彼はおそらく6月5日か7日の公演を観たのであろう。それでもなお、彼が文中で「明後日が其最終の日[=6月10日]だ」と明言しているのが未だ解けない謎として残る。

本稿は2003年クローバー・ブックス刊『アートマニア』創刊号掲載分に増補加筆したものである。