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15/06/20 戦中に祝う - 帝国ホテルでのクリスマスと皇紀2600年の祝祭をめぐって

■田中千代旧蔵資料については、アップして早々、懇切なアドバイスを頂戴したり、お問い合わせなどもいただいており、本当に有難いことです。分野横断的な内容は得難い上に他に代え難く、また、だからこそ非常に面白いのですが、「売る」ということを考えるとむしろそれが仇。いつどこに嫁いで行くのか霧の中。さらに、最後の入荷となった田中千代旧蔵写真一括 - ファイル29冊のフィルムと一部ベタコマ紙焼き ― を見始めるたら、ファッションショーのスナップ写真はもとより、福田勝治が撮影したアーニーパイル・ガールズ(!)の洋装スナップだとか、田中千代学園芦屋校でのバザーで似顔絵描いて繁昌する鴨居玲氏だとか、小磯良平とのスナップや芦屋浜松原で野外展示された吉原治良の作品、浴衣姿のパワーズモデルたちの宴会風景なんていうのまで顔を覗かせてくれちゃったお陰で、最後まで見落とせない情況が生じております。
といった次第で、田中千代先生をめぐるニチゲツドーの大旅行はあともう少し続くことになりますが、それはさておき、今週の新着品のご紹介です。何しろこのまま行くと、田中千代が売れない限り、売上が立たない。それはまずい。まずすぎる……。

知識が先かモノが先か。古本屋の「買い方」は大きくこの二つに分かれるように思うのですが、日月堂の場合は後者が前者を圧倒。あくまで先に立つのは「ややや、こんなものが!」という発見や「すっ、すばらしい…」という感覚で、で、「そもそもその正体とは?」という最も肝心なことは後回しであります。そろそろ知識先行で仕入れるべき古本屋としての歳月を重ねてきたはずなんですが。まずい。これまたまずい。がそれはさておき。戦前に日本のホテルでクリスマス・ディナーショなんてものが開かれていたことを知ったのも、「クリスマスの催し」と印刷されていた帝国ホテルの小冊子を通してのことだったのであります。いまからかれこれ13年前、表参道に店を移転して間もなくの頃のことでした。奇しくもその時と同じ、昭和10年と11年(1935・1936年)の「帝国ホテル クリスマスの催し」プログラム(小冊子)が再入荷いたしました。また、昭和10(1935)年については、クリスマスカード仕立ての「12月25日 クリスマス祭午餐献立」1点もついていました。画像中、下段右端がそのメニューで、赤の台紙のリボン状の切り込みを入れ、多色刷りの表紙と銀罫入りの献立表を差し込むというとても凝ったつくりになッています。ちなみに献立はフランス料理のフルコース、メインはヒラメと七面鳥というのですから、威風堂々たるクリスマス・ランチだと云えましょう。
さて、「クリスマスの催し」ですが、両年とも24日クリスマス・イヴの夜と25日クリスマスの昼とに、食事と余興とを提供したもので、今日のディナーショーとほぼ遜色のない内容。余興について云えば、いまよりさらに豪勢だったのかも、と思わせます。
余興はイヴ、クリスマス当日とも同じ内容ですが、10年・11年ともに、第一部「漫画」 - ベティ、ポパイなど子どもの漫画フィルムの上映 - に始まる4部~5部構成。昭和10年(画像中下段真ん中)の目玉は「第二部 ロッパのお伽噺」で「古川緑波 其ノ一党」の出演。この年は他に童話劇と日本舞踊を加えた4部構成。続く昭和11年(画像下段左と上見開き)は何と云っても「第四部 舞踊」が呼び物だったはずで、崔承喜の創作7作品が組まれ、内4作は崔自身が踊ったようです。何という椀飯振舞! 他に玉乗りなどの珍芸、3才から11才の子どもたちによる「小品舞踊」、曾我廼家五一郎以下による喜劇とを合わせた5部構成でした。この当時、緑波も崔承喜もともに人気絶頂期を迎えていた大スター。クリスマスの催しに彼らを起用できたのも、そもそもクリスマスの催しで客を集められたのも、世界に冠たる帝国ホテルならではのことだったのだろうと思います。
帝国ホテルの「クリスマス祭」は大正時代の初期にはすでに開催されていたようで、詳しくは青弓社のサイトのこちらのページをご参照下さい。前回入荷した13年前に分からなかったことがたちまち分かる今日であります。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/yohakuni/blank119.html

■たちまち分かることが刻々と増えている今日、それでもまだよく分からないことはあるぞというのが『皇紀二千六百年 奉祝芸能祭』。戦中日本の代表的プロパカンダ誌『NIPPON』の編集・発行で知られる名取洋之助を編纂・発行人とし、名取が率いた国際報道工芸(日本工房から改称)が昭和17(1942)年1月になって発行した写真集です。
皇紀2600年というのは、天皇の神格化をすすめた明治政府が、記紀の記述をもとに、神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定めたことによるもので、昭和15(1940)年がこれにあたります。オリンピックと万博の開催で、この年には世界中に国威を示そうと準備を進めるも戦局の拡大によりあえなく中止に。そのかわり、国内の芸術文芸各界の総力をあげて記念行事に取り組んだのが「奉祝芸能祭」であり、音楽及舞踊創定委員会部会、演劇委員会部会などの他、奉祝「序曲」審査委員会、映画コンクール部会など、分科会ごとに著名作家、評論家から元左翼演劇青年といった転向組まで名前を連ねる挙国一致体制で、結果的に、多分に愛国意識の高揚や犠牲精神の称揚などプロパガンダ的な性格をもつ作品が過半を占めることになりました。
『皇紀二千六百年 奉祝芸能祭』は、いずれも昭和15年=1940年の1年間に上演・上映された作品を式典、音楽、舞踊、演劇、映画というカテゴリー別スチール写真でまとめたもので、演劇は木村伊兵衛、音楽・舞踊は渡辺義雄が撮影、編纂は国際報道工芸。
テキストは巻頭挨拶文を除くと、タイトルや製作関係者の氏名の和文欧文併記のクレジット程度で問題は写真のレイアウト。がしかし、名取と国際報道工芸にとっては苦もなく料理できるはずの仕事が何故、まるまる1年も遅れての発行となったのか。皇紀2600年のプロパガンダとしては、できるだけ早く発行するよう求められる方が自然なはずです。ならばと図録『名取洋之助と日本工房』にあたってみたのですが、当書に関する記載は(私の見落としでなければ)全く見当たりません。2006年開催の展覧会では、何らかの理由で存在が無視されたのか、或いは当書は知られていなかったのか。また当には、本文中2ページが版元からリリースされる前に切り取られ、それを処理した形跡が残されています。この2ページ=裏表4ページに一体何が掲載されていて、どういう問題があったのか。ケンサクしてもいまはまだ回答が見つからない「何故?」が残されました。
■今週の真面目なおはなし。http://www.bengo4.com/other/1146/1287/n_3262/
そして今週の大笑い。「いわば朝鮮半島」ってどこ。あ。私の創作じゃあありませんよ。こんな面白いの書けないデス。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/9dfa28211aa5599486608b259ae6d92f
「今、あらかじめ、こうしたこうしてこうした事態があるということを今ここで申し上げるということはいかがなものかと思うわけである。つまり、そうならなければ、いわば、そうならなければ、われわれは武力行使をしないということは、これが明らかになってくるわけである。 そこで、その上で、その上で申し上げれば、いわば朝鮮半島で、朝鮮半島で有事が起こる中において、米艦船がその対応にあたっていく。これが重要影響事態に当たれば、われわれは後方支援を行う。  その中において、某国が東京を火の海にする発言をどんどんエスカレートさせていき、さまざまな状況が、日本に対してミサイル攻撃するかもしれないという状況が発生してくる。  その中において米艦船、あるいは、その米艦船がミサイル防衛に関わる艦船であった場合、それを攻撃するということは、その攻撃された艦船を守らないということについては、これはやはり3要件に当たる可能性があるわけだ。  しかし、そういうことをケース、ケースで私が述べていくということは、まさに日本はどういうことを考えているのか、どういうことでなければ、武力を行使しないために政策的な中身をさらすことにもなるから、これは国際的にもそんなことをいちいち全て述べている海外のリーダーというのはほとんどいないということは申し上げておきたいと思う」
*「産経新聞が詳報してくれたのをそのままご紹介しています。」とのこと。政治は先ず第一に言葉であるはずなのだけれど。

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