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13/06/22 木版刷り・キモノの図案集4冊192図! 戦中戦後の写真集2冊!!


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■今週、キャビネットの上の陳列品を全面的に入れ替えるのに、早速新着品を使ってみました。全図多色木版刷で作られたキモノの図案集『四季模様百趣』昭和13(1938)年4月発行の巻一から翌14年1月発行の巻四まで4冊揃い。本は木版片面刷りの経本仕立てで、専用の帙に収められています。
著者は以前他のキモノ図案集でご紹介したことのある河原崎晃洞で、京都の内田美術から発行されたもの。タイトルには「百」の文字がありますが、実際には1冊に48図、従って4冊合わせたデザイン図案は192図にのぼります。『四季模様百趣』について云えば、糸まき、毛毬、水、花といった一般的なモチーフよりも、傘や笛 - といったあたりはまだ一般的な部類で - 野菜、カニ、カエル、虫、虫籠、さらに野菜やガイコツ、シャレコウベまで動員して、非常にユニークなものが多くなっているのが特徴となっています。著者の遊び心にニヤリとさせられたり、眺めているだけでもなかなか楽しい。
欧州では19世紀末から、日本では明治の初め頃から、この『四季模様百趣』のように、テキスタイルやインテリア、磁器の絵付けなどに自由に使うことのできるデザイン集が盛んに出版されるようになったというのはご存知の通りですが、しかし、こうして改めて見ると、これ全部フリーソースというのですから、しかも、その図案集自体、木版だったり石版だったり素晴らしい出来栄えだというのですから、実に何とも豪勢な時代があったものですね。


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豪勢、といえば、こちらのご一行様の視察旅行も、得意の絶頂にあってさだめし豪勢であったに違いなかろうと推察されます。
「香港占領地総督部」の看板前に立つ無名氏個人の旧蔵品と思われる写真アルバムが1冊。収められているのは全て、1942(昭和17)年3月から4月にかけて行われた太平洋戦争開始当時の戦場戦果を見てまわった際に撮影された生写真です。
視察ご一行様は、無名氏をはじめとする日本の軍関係者だけでなく、この年の1月、軍事協定を結んだばかりのドイツ、イタリアの軍関係者を含む三国編成。移動にはもっぱら航空機が使われたようで上空からの写真が多数混じります。アルバムに糊貼りした写真は全部で113点。その多くに几帳面な字で何の写真かが書き添えられています。* 以下「」内は全て書き込まれた説明の写し
最初の渡航地・台北では「林本源邸」に立ち寄り、上空から「ヴィクトリア・ピーク市街」「九龍住宅地区」「ペニンシュラホテル附近」などを見下ろして香港入り。
真珠湾攻撃と同日・1941年12月8日に開始した攻撃であっけなく攻略してしまった香港各地に残る戦蹟-「九龍城門貯水池戦蹟」「香港島北角敵前上陸地点」「啓徳飛行場 Condor(戦闘機)の残骸」等 - や、「王座から引降ろされたヴィクトリア女王(の像)」「英人の収容地 赤桂半島」などを激写。
「サイゴン河」「サイゴン市街」を窓外に見ながらベトナムに入り、「日本ホテル」に投宿。続いて、視察のひと月前に英国軍が降伏、日本軍占領軍政が始まっていたシンガポール=昭南島に入り、「ジットラ戦突破の英霊」の埋葬地を訪ね、戦闘を指揮した「山下(奉文)司令官訪問」、「38cm巨砲陣地」や「ジョホール・バルよりコースウェー望む」といった風景を写真に収めています。
さらに、視察当時、まだ戦闘の続いていたフィリピンへ。マニラ上空「パンパンガ湿地」方面より上陸し、モダンな「ネルソン飛行場の建物」や「宿舎 マニラ・ホテル」を撮影。
4月2日には、アメリカ統治時代に建設されたマニラ・ホテルで、日独伊三国の関係者がゆったり歓談する様子が写されています。
がしかし、ここから先は戦闘の痕跡 - 日本の戦果 - が、生々しい残骸の姿で記録されていくことになります。


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「キャビテ軍港 爆破された米潜水艦」「撃破された米軍機」として「Boeing B-17 Flying Fortress」「Dauglus DB-1 Bomber」「Dauglus DB-1内部」「Dauglus 偵察機」「Curtiss P-40 Fighter」「Martin 10 Bomber」「Sevensky Fighter」などなど、爆撃され、撃墜され、押しつぶされた破壊と残骸の痕跡が続きます。無残な破壊の先には、軍服に身を包んだ視察団8名の和やかな姿が写る写真が1枚。「羽田飛行場に帰還 April 7.1942」というクレジットとともに、このアルバムは閉じられています。

■今週はもう1点。専用帙、経本仕立ての本体とも題銭に『世界労連代表訪日記念』と書かれた写真帖。タイトルも何もない先の個人蔵のアルバムとは違い、公的な意味も含め、記録として残すことを企図してつくられたものと推測されますが、奥付、メモ書きなどは一切ないのが少し不思議。訪日のメンバーから行事、日程まで深く知る人たちの間だけに共有されていたものかもしれません。
日本の敗戦から約1年半を経た1947(昭和22)年3月、国際的労働者組織「世界労働組会連合」の代表が、世界労連書記長ルイ・サイヤンを団長として来日。写真帖はこの時の記録にあたる生写真です。
一行は東京、京都、大阪、広島、福岡、大牟田の各地を訪問、その後、4月4日に開かれた歓迎大会には20万の労働者が集まり、決議文の採択などを経てデモに移ったといいます。
写真帖には大きな机を囲んでの会議、代表団各委員の演説の模様、「東京芝浦電気株式会社 堀川工場」と看板のかかった工場内の視察、赤ん坊を背負った幼い男の子たちや貧しい暮らしぶりの労働者の家庭に立ち寄った際の様子、そして圧倒的な規模で組織されたデモの様子などが82点の写真によって記録されています。
写真を通して感じられるのは、工場地帯のほこりっぽい街の空気であり、衣食住どれをとっても、貧しいとしか云いようのなかった、当時の日本の、一般労働者とその家族のありようです。戦後のスタート地点は、実に厳しいところに置かれていました。所得、社会保障から命まで、為政者によってつくられたツケは国民、とりわけ弱いところから払わされていくようで、いくら時代が変わろうが、これだけはどうもそう簡単に変わらない点であるようです。しかも今度まわってくる時には、相当なものになっていそうでおそろしい。私たちはもしかしたら、埃っぽい街に返されてしまうのでしょうか…。そんなことをついつい考えてしまう6月23日前日です。

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