#205 6-1-6 Minamiaoyama Minatoku TOKYO
info@nichigetu-do.com
TEL&FAX:03-3400-0327
sitemap mail

detail

11/07/23 HP不具合につき 画像アップまで暫しお待ち下さい 本当なら … エリック・サティ&シャルル・マルタン『スポーツと気晴らし』/ 藤田嗣治 戦争画をめぐる肉声-木村荘八宛直筆書簡7枚


Warning: getimagesize(http://nichigetu-do.deci.jp/img/info_thumb/1311423295327.jpg) [function.getimagesize]: failed to open stream: HTTP request failed! HTTP/1.1 404 Not Found in /home/users/2/deci.jp-nichigetu-do/web/navi/info/detail.php on line 146

* HPの不具合のため、土曜日未明の段階で画像のアップができません。問題解決次第、アップいたしますが、下記の商品2点について、それぞれ早く画像がご覧になりたいなど、ご要望がございましたらメールでお送りいたしますのでお申し出で下さい。→ 7/25 HP復旧、画像アップ完了いたしました。尚、お陰さまで「info」のつくメールアドレスでのメール送受信も復旧いたしておりますので従来通りご利用下さい。
■今週のご紹介する新着品は、先週予告いたしました2点です。先ず初め、小店入荷は2006年12月以来、2度目となった『SPORTS & DIVERTISSEMENTS』-邦題で『スポーツと気晴らし』。演奏し始めたら最後、永遠に繰り返されて終わりのない「タンゴ」はじめ、エリック・サティの奇想に溢れる小品20作(他に序曲も)からなる「スポーツと気晴らし」といえば、クラシック音楽好きの方にはよく知られた作品だと思いますが、しかしこの一連の作品が全て、アール・デコの時代、その中心地パリで活躍していたイラストレーター、シャルル・マルタンのイラストから発想して創作されたものだということ、そしてこの“当代随一の人気イラストレーター+新しい時代の音楽家”のコラボレーションによる出版を企画したのが、高級婦人雑誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』- 当HPご高覧の皆さまにはお馴染み ですね - を仕掛けたことで知られる稀代の出版人ルシアン・ヴォージェルだったことを知る人は、案外少ないのではないでしょうか。当書が発行された1914年当時、スポーツやレジャーは富裕層にとって「気晴らし」のひとつに数えられはじめた最先端のモードであり、それを見逃さなかったのがヴォージェルでした。『スポーツと気晴らし』は、流行=モードがめまぐるしく入れ替わるようになったモダニズムの時代を象徴する作品といえるでしょう。
今回入荷した『スポーツと気晴らし』は1914年発行、エリック・サティの肉筆楽譜を忠実に複製した楽譜20葉(各葉とも反対の面にマルタンによるタイトル文字とカット入り)、マルタンによる扉(裏面にサティの序曲楽譜入り)、シャルル・マルタンのポショワール・プレート1葉、及び全曲リストと出版概要(=奥付)の1葉という未綴じ全23葉をオリジナルのポートフォリオに収めた限定675部版。ポートフォリオに傷と補修がありますが、プレートの状態はいずれも良好。マルタンのポショワールやカットは当然にせよ、随所に挿入されるコメントを含め、サティの楽譜のもつ意味や視覚的な面白さも見落とせません。


Warning: getimagesize(http://nichigetu-do.deci.jp/img/info_thumb/1311586111617.jpg) [function.getimagesize]: failed to open stream: HTTP request failed! HTTP/1.1 404 Not Found in /home/users/2/deci.jp-nichigetu-do/web/navi/info/detail.php on line 166
1311586111617.jpg

封筒裏面には藤田の住所と氏名が印刷されている他、「八月十九日」と墨書きされている。

1913年にパリに渡ると、モードとアートの都で才能を花開かせた藤田嗣治。1933年以降は日本に戻ったりパリを再訪したりと両国間を行き来していましたが、1940年ドイツのパリ侵攻を契機に日本に帰国、以後、ご存じの通り、戦争画に力を注いでいくことになります。昭和18年8月19日の消印と書込とがある木村荘八宛・藤田嗣治の書簡は、「美術工芸会謹製」「藤田用箋」に7枚という長文で、当時手掛けていた「ソロモン海戦」そして「アツツの玉砕」など戦争画への取り組みについての藤田の肉声が生々しく伝わってくるものでした。少し具体的に見ていくと - 「遂に意を決してから二百号にソロモン海戦 更にアツツの玉砕を又二百号に描くようになつて腕の鳴りが稍おさまつて この暑さにも雷鳴にも驚もせず ずうーと七月廿二日以来 外出もせず 留守を使つて 世間では南方へいつてると思つて手紙も電話もなくなつたを幸いと 画室に閉じ込んで、招待もお断りし、映画へも足を向けず かいて暮らして居ります」と近況を報告。「戦地に出かけなくつてもこれ位描けると言ふ方が面白いと思つて始めました。二枚の画、実際南へ北へ立つた処で海戦はとうの昔済んで何一ツある訳のものじやなく(中略)ドロクロアでもルーベンスでも 皆んな本当の戦争を写生した訳でもないに異いない、馬や女が裸になつて天から降る様な戦争を見た訳でもないに異いない、やつぱり人の事じや想像力が強い。(中略)私なんぞは その おえらい巨匠の足許にも及ばないが、これは一ツ私の想像力と兼ねてからかいた腕だめしと言ふ処をやって見ようと 今年は何か一番難しいチヤンバラを描いてみました」謙遜しつつも自らの試みを世界的巨匠になぞらえ、さらに、「珍しい画が出来 西洋の画でもない様な 又日本の画家の画でもない 私のくせ許り出てる画が出来 このくせがいいんだな、これが私の個性と言うのだなと 私が私の画の結果に教はつてびつくりする」と成果についても満足げな様子で、「この次のが楽しみになつて来ました。もう元気で三百号の空想が 頭の中でムズムズしてます。気味の悪い南の海や北の これも恐ろしい黒い海が出来ました。」と次作の構想まで語るといった具合です。冒頭の5行程度を除くと終始自身の画作のことばかり、いくつもいくつも言葉を重ねながら、一種躁状態を思わせるようなテンションが最初から最後まで続きます。藤田の戦争画の中でも一際異様な迫力をもつ「アッツ島玉砕」と、「ソロモン海戦に於ける米兵の末路」の完成を目前にしていたという事情もあるにせよ、便箋7枚にびっしりと綴られた当時の藤田の姿 - 戦争画への没入 - には、戦後、画壇の戦争責任を藤田が一身に背負わされることになったのも、あながち無理からぬところがあったのかと思わせるものがあります。
書簡にはこの他、木村からの来信に記されていたらしい藤田の画への批評に関する謝辞、この年の5月に創立された「日本美術報国会」の理事に仲間入りをしてのこと、軍からの従軍・派遣命令のことが記されるなど、藤田の書簡としても7枚という長文は稀、資料的側面の強い直筆ものです。
 

inquiry 新着品案内 / new arrival に関するお問い合わせ

お名前 *
e-mail address *
お電話番号 *
お問い合わせ 件名
お問い合わせ 内容 *
  * は必須項目です)

recent