物語をモノ語ろう
本を取りに行って、火鉢を抱えて帰ってきました。ポケットには小さな香炉がひとつ。
これは一体どうしたことでしょう。
わけの分からぬ本と紙の堆積した住まいに火鉢と香炉を置いて、つくづく眺めてみました。
雑然たる住まいのそこだけが、何だかどても上等に見えてきます。
もったいない。
宝の持ち腐れ。
だって、上等な品物なんですから、当然です。
そういえば、数竿分の桐ダンスには、着物がたくさん納まっていたのです。
「これはどうなさるのですか」
「もう着るものがおりません。どうしましょう」
部屋の片隅に転がっていたオープンリール、話を聞けばこれが8ミリフィルムの再生機。モニター一体型の珍しいモデルで、まだ使えるというのです。
「これはどうなさるのですか」
「もう使うことなどないのです。どうしましょう」
納戸にはまだまだたくさんいろいろなものがあるといい、
「それは一体どうなさるのですか」
「もう私たちには必要がないのです。いっそ、捨ててしまいましょうか」
こんなふうにして繰り返されたやり取りが、思い出されてくるのです。
さて、これは一体どうしましょう。
古本屋なんてものをやっておりますと、ときどき、「物語のカケラ」を扱っているのだと思うことがあります。 |
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本の見返しに書き込まれた見知らぬ名前や遙か昔の読了の日付、活字の横に記された傍線、余白に綴られた心象風景。開くたびに同じ頁にあたるのは、励ましか共感かいずれにしろ、元の持ち主がことある毎にそこを開いていたからに違いないと想像します。
想像とはいえ、そこには確かに、ある人のある時代のある気持ちやある思いの、痕跡が記されて、いま、ここにあります。
しかしそれは、ある人や、場合によってはある家や時代の、総体からすればホントにわずかな一部分、それもごくちっぽけなカケラに触れているに過ぎません。
火鉢を眺めながら考えました。
何も本だけではないのです。
時間を経、人の手を経てきたモノにはすべて、物語が宿っているのではないだろうかと。
いや、むしろ、本だけでは物語など語りようもないのではないかと。
そしていま、他ならぬこの東京で、こんなことに出会える確率は、そても低いのだとも。
二〇〇三年十一月下旬、火鉢を抱えて帰った小春日和の日。
私たちはひとつの仕事の可能性に出会いました。
そして二〇〇四年春。
昭和から始まる七十年間、暮らし継がれてきたある家の、家族三代の物語を、モノを通して語ってみようと思うのです。
昭和という、時代の缶詰を開けるようにして。
さてそこには、どんな風景が見えてくるのでしょう。
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